どうも、白くま父さんです。
私が、自分のご先祖様に興味を持ち始めたのは中学生くらいのことだったと思います。
当時、光栄のゲーム「信長の野望」やNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で戦国時代に興味を持ち始めた頃でした(「信長の野望」はPC-8801でおそらく初代か全国版をプレイしていた頃でしょう)。
私は父親に、自分の先祖にエライ武将や歴史上の有名な人は居なかったか? 質問をしました。
そんな私に、父親は、なかなかの模範解答をしました。
「うちは平民だから先祖にエライ人なんか居ないよ。
もしエライ人が居たとして、だからどうしたと言うんだ?
先祖がエラくてもお前はちっともエラくないんだぞ。
お前がこれから頑張って子孫が誇れる人物になればいい。」
。。。。。ぐうの音も出ませんでしたね。それはそうだ。
それはそうなんだけど、なんかつまんないなあ。そんな顔を私はしていたのだと思います。
父は、困ったなぁと思ったのか、昔自分の父親(つまり私のおじいさん)から、微かに聞いたことのある我が家の先祖の話をし始めました。
それは、次のような概要でした。
- うちの名字は大曲(現在の秋田県大仙市大曲)発祥のものであること。
- そして、この名字は二人の兄弟が、江戸時代のいつの頃かはわからないが、北陸の方から北前船に乗ってやってきて、雄物川を上り、大曲に土着した事から始まっているらしい。
- はじめに、兄弟のうちの一人が大曲へ先にやってきて、もう一方の兄弟を呼んだらしい。
- この兄弟の2つの系統が同じ名字を名乗っていて、片方が我が家の系統、そしてもう一方の系統からは明治時代に政治家が出たらしい。
私はこれを聞いて、おしいなあ、政治家は別の系統で、自分の直系の先祖には特にだれも居なかったんだなあと、ガッカリして、それ以上自分の先祖に興味を持ちませんでした。
でも、この微かな伝説が、後年の先祖調査に役に立つとは、このときは思いませんでしたよ。
つづく!!
初稿:2020-12-7
アイキャッチ画像1200x800px化:2020-12-12
リストブロックを使用してみた:2020-12-20
コメント
初めまして。小生の先祖も江戸時代初期に佐竹氏についてきて湯沢市近傍に配置され土着した山伏でした。出身地は茨城県久慈郡大子町です。白くまさんの御先祖も同じ頃に大曲に移住したとのことですが、小生の知人で大仙市に住む二人も白くまさんと似たような伝承があるようです。政治家も出ていると。ひょっとしたら?違うかもしれませんが。
tamenanさん。
ご先祖様の出身地まではっきりと分かっているとは、すごいですね。
また、大仙市に住むお二人の知人さまは、私のうちと似た伝承があり、しかも政治家が出ているということは
もしかすると、同じ名字かも知れませんね!!先祖が兄弟なのかも!!
貴重な情報を頂きありがとうございます。
個人情報なので姓名は記載できませんが、神様に供えた田んぼとか笹ノ木みたいな感じですけど心当たりはありますか?
なるほど!!うまいですねw
おそらく一致してますね!!
良かったです。神様の分家は文房具店を営んでいました。ハンコを買おうとしたのはそこかと。今は廃業しています。本家の出身地は新潟あるいは茨城と2説があるようです。聞いた話です。笹は当初は美郷に住んで酒屋をしていたそうです。佐竹氏の国替の道筋には2か所あり、伏見城で言い渡されて、そのまま家財を処分して舞鶴から秋田まで海行(佐竹氏の父)、新潟に寄港した可能性は大です。福島県棚倉に家臣団が集合して陸路で秋田まで行った(佐竹氏の息子)とあります。秋田県立図書館には中世佐竹氏、常陸の領地関連の古文書がたくさんあります。あとは電話帳、地名大辞典、市町村史から先祖を探す方法があります。小生の場合は山伏、さらに儒者でしたので由緒の書かれた墓誌が残っていました。そこからたどりました。
コメントありがとうございます。
ブログを書き始めて今まで、コメントが無かったのに、一回目のコメントがこんなに続き、濃い内容なので喜んでおりますw
ブログを書いててよかったですw
亡くなった父から、文房具屋さんは遠い親戚で本家筋だと聞いたことがあります。
戸籍を明治の初期まで遡ったのですが、文房具屋さんのお家の方は出てこなかったので、おそらく江戸時代に分かれたのだと思います。
ブログにも書いた通り、戸籍を遡って一番昔の方の名前は「源蔵」といい、これが江戸時代の我が家の系統が代々襲名する名前だったようで、北陸から来た二人の先祖の兄弟の片方の名前も「源蔵」といいます。
なんで、これが解ったかと言うと、国立国会図書館デジタルコレクションで別系統からでた政治家の伝記が閲覧でき、そこにやはり我が家と同じ伝承が書かれており、
兄弟の一方がその政治家の代々の襲名の名前、一方が我が家の襲名と同じ「源蔵」であったからです。
また、戸籍をみて解ったのですが、六郷から養子で入っている方もおられますので、その方の家が酒屋だったかは解らないのですが関係あるかも知れませんね。
秋田県立図書館には秋田県公文書館が併設されており、江戸時代以前の関東の歴史をしらべる為に日本全国から学者が来るそうです。
なぜなら、佐竹家は後三年の役で活躍した新羅三郎源義光の子孫である正統な源氏で、平安時代から常陸に土着していたためたっぷりと古文書があり、それが国替えと共に秋田に来て、今は公文書館にあるからだそうです。
もちろん、佐竹家家臣であれば、江戸時代の藩の史料が公文書館にありますので、tamenanさんはそこから探されたのですね。
また、大仙市には大仙市アーカイブスが西仙北にあり、ここにも歴史的な史料がたくさんあり、ここから結構先祖の痕跡を探したりしております。
先祖探しは面白いですよね。神社の灯籠の寄進者に先祖の兄弟の名前を見つけた時は、えらく感動をした覚えがありますw
やはりそうでしたか。小生もお知り合いになれて嬉しいです。小生は神様の本家と姻戚です。姪っ子二人には白くまさんの血筋がちょびっとだけ入っていますよ。ただ小生の実家の相続問題で妹と係争中でもあり縁は切れています。先祖探しですが小生はネット検索で姓○○、国人、山形福島茨城をキイワードにして大子町のホームページに行きつき、同姓の侍が載ってましたので秋田県立図書館に移住していないかと問い合わせしました。移住しているとの返事でした。公式リファレンスに掲載されています。後は初代の墓を探して一族の墓域をウロウロしながら写真を撮りまくりました。一見では摩耗していましたが画像を精査して移住の経緯が彫られた墓誌を発見した次第です。初代の墓は明治以降に忘れられており伝わっていませんでした。江戸時代初期は中世の慣習が残っており姓は皆持っていたようです。
遠いご親戚の方でしたか。これはこれは、どうぞよろしくお願いいたします。
自分は大曲ではなく、秋田で育ったものですから、
同姓の親類は親父の兄弟しか知らなく、地縁はあまりない状態で、
こんな伝承ホントかいなと思っておりました。
調べていくと結構家伝というか、伝承、言い伝えもバカにならんものだと実感しておりますw
こちらこそよろしくお願いします。本当の伝承は意外と分家の方に残っていることがあります。小生のところも1700年代に分家した6代目に伝わっていました。本家の伝承には別系統が入り込んでいて本家の当主はそちらを信じていました。神様の姓は珍しいなと思っていましたところ妻からの情報でウイキペディアに神様の御先祖源蔵さん、◯兵衛さんの名があり、さらに◯井◯◯郎からでたと記載があります。白くまさん、先祖探しに頑張ってください。応援します。ちなみに小生は秋田市に住所地として別宅がありますが、今はリタイアして北上市に住んでいますよ。
北上ですか。こちらは横手に住んでおります。
ウィキペディアの記載は、殆ど政治家の伝記と大曲の文献の内容なので実は既に知っていたりします。
というか、実は誤記の修正を入れたりしてたりしてw
さすがにバレそうなので一部伏せ字にさせてもらいましたw
先祖探しの修行のため
崩し字の読解を練習して、古文書を読めるように成りたいです。
○井○○郎さんはキィワードにはならなかったのですね。残念。ただ移住するのに無一文ではないと思いますので誰かのツテがあったと推定します。特に同郷の人だと調べ易いのでは?。小生の場合、同族の侍、同郷の侍達が大子町からの主人であった佐竹南家に仕え、その周りの村々に山伏が配置されたようです。関ヶ原合戦当時の日本の人口は1千万と言われますので、辺境の地はスカスカだったのでは。婚姻も同郷同士だったようです。前領主の侍や繋がりのある職人商人が去った後には空き家がたくさんあったのでは。小生の先祖も寺の支配者、最上氏家臣楯岡氏が去ったあとに入りましたよ。
どうも、ご無沙汰しております。小生なりに調べてみました。日本姓氏語源辞典には神様の姓は全国で1800人ほど、石川県白山市木津町には20人の集団が居て、塾を経営している神様とTVに紹介されていましたよ。神様の姓の初出は室町時代の鎌倉市とあり、足利将軍の時代です。興味深いことに埼玉県本庄市に130人がおり、足利一族はその辺の出身だと記憶しています、関係者が移動したのか面白いことです。神様はレアな姓ですので誰かが系図を調べて出版しているかも。
いろいろ調べて頂いてありがとうございます。石川県にも集団がいるのですね。
政治家の伝記によると、◯井さんは元々越後三国から来たそうです。
でも越後の三国は今の新潟県の魚沼の辺りのようで山の中です。
他の史料によると越後ではなく越前と書いてあるものもあり、
越前三国であれば港町で三国港は今の福井港の一部で北前船の拠点ですので
こちらのほうが当たりなんだろうなと、検討を付けております。