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前回、久保田城〜楢山登町編 その2はこちら
どうもー、白くま父さんです。
久保田城〜楢山登町編に入って、今回で第3回目になります。
久保田城跡の千秋公園から楢山登町までの経路は以下のとおりです。
黄緑色の部分が、前回まで歩いた経路となります。前回、追手門跡(現:千秋公園ポケットパーク)から旧黒澤家住宅跡まで歩きましたので、今回は旧黒澤家住宅跡からスタートです。
はい、ここから南下をつづけますよ。
旧黒澤家住宅からちょっと南に行くとこの十字路まで来ます。
左から右(西から東)の向きの一方通行と交差します。
これも藩政時代からの道そのままですねー
十字路から南に進みますと、左手に教会が見えてきます。
イヤタカグループの結婚式場のようですね。
そして、教会の向かい、つまり道の右手には、中通小学校があります。
この辺は迷わないですねー
そしてそして、中通小学校からさらに南下しますと、またまた十字路があります。
でも、ここは藩政時代は十字路ではありませんでした。
この写真の薬屋さん(中通6丁目薬局)の向かいには、
東北森林管理局があります。旧秋田営林局ですが、旧青森営林局を統合し、東北森林管理局となった現在は、なんと福島県を除く東北5県を管轄している林野庁の地方支分部局だそうです。
そして、ここ東北森林管理局の場所が問題なのです。
ここはだいぶ変えちゃってるんだよねー
それでは、現代の地図と江戸時代の地図を見比べてみましょう。
東北森林管理局の敷地にかつての追手二の門(虎ノ口門)がありました。
東根小屋町などがある今まで通ってきた三廓(中通の廓)から、
この追手二の門を通って、これからいく亀ノ丁廓へ抜けたんじゃ。
亀ノ丁廓へ抜けても、まだまだ城内だぞ。
追手二の門跡は、周辺の堀・土塁と共に見事に無くなっております。
東北森林管理局の中を赤い破線の様に通りたいのですが、もちろん現代は通れません。
よって、黃緑色の様に回り道をします。恒例のワープです。
門や堀・土手を壊しおって!!
仕方がない、参るぞ!!
地図上の①が東北森林管理局ですぞ!!
ーーーーワープここから
①東北森林管理局から南に進み、②に来ました。
この辺は江戸時代、堀の中でございます。
眼の前の道を右折します。この道は江戸時代からある堀沿いの道です。
②から右折すると③にきますので、堀沿いの道を西に進みます。
写真の熊倉商店さんは、江戸時代なら堀の中でございます。
③から堀沿いの道を西に進みますと④に来ます。
ここには江戸時代、土手というか土塁があって直進できなかったはずなのですが、現代にはもうありませんので、直進し右折、北に進みます。
④から右折し、北に進みますと⑤にきます。
この右側の駐車場は江戸時代、土手&堀なのでございます。
⑤から北に進み、突き当たったところが⑥で東北森林管理局の裏にでます。
写真は東側をみておりますが、「進入禁止」と冷たく突き放されてしましましたねえ。
東北森林管理局様、かつての「追手二の門(虎ノ口門)」跡が無いかどうか、見学させてもらえませんかねえ?何もないのかもしれませんが、なにか形跡とか無いか見てみたいですーw
はい、⑥でくるりと西側に振り向いたのが⑦の写真となります。
クドいようですが、左手の車が止まっている場所は、江戸時代は堀の中でございます。
ここで、ワープは完了です。かつてのお掘り沿いの道を、西にすすみましょう。
現代の住所は中通5丁目だが、ここはもう「亀ノ丁廓」じゃ。
ーーーーワープここまで
お堀沿いの道を西にすすんできました。右側の道は中通小学校の裏手から来ております。かつての西根小屋町ですな。
右手にみえるみなみ食堂さんはリーズナブルな居酒屋さんだそうですが、白くま父さんはまだ行ったことはありません。今度行ってみたいと思いますが、とうぜん江戸時代、みなみ食堂さんは堀の中でございますw
みなみ食堂さんから西に進みますと、このような大きな建物が左手に見えております。
「あなたの税がいきている」。。。。ふーん
はい、この建物は秋田南税務署です。。。。
秋田南税務署まできましたら、進路を南に変えます。
やがて、参勤交代の道と南通が交差します。
右手には、白くま父さんが中学時代から大学生のころまで足繁く通った松坂古書店があります。というか、すでに閉店されて、貸店舗として募集されております。悲しい。。。
みんな大好きお馴染み「二〇世紀ひみつ基地」さんの記事によると、2017年11月に閉店したようです。
松坂古書店の全店舗回ったなあ。あの頃はブックオフなんか無かったから、古本屋さん貴重だったんですよ。他にもマウンテンブックスとかザ・ブックスとかいっぱい古本屋さんあったなー。
さて、それでは南通を渡って南に進みましょう。
南通の向こうは住所が「南通亀の町」になります。やっと、亀ノ丁廓にちなんだ住所になりますな。
そして、お向かいの立派なお屋敷の横に説明書きがあるようですな、見てみましょう!!
説明書きを書き出しておきますね。
平田篤胤終えんの地 秋田市南通亀の町五番二十号
「 江戸時代後期の国学者 篤胤は安永五年(一七
七六年)中谷地町(現在の中通四丁目二)に佐
竹藩士大和田祚胤の四男として生まれた。
二十歳の正月、志をたて江戸に出て大いに勉学に
つとめ、二十五歳の時、松山(岡山県)藩士平田
篤穏の養嗣子となった。
本居宣長の国学に啓発され、宣長没後の門人とな
って国学、神道で一大が核はをなし、生涯を学問に
うち込んだ。
六十六歳の時、その思想が幕藩体制をゆるがすと
されたため、幕命により国元秋田に帰り、佐竹藩
より当地に居宅を賜ったが、天保十四年(一八四
三年)九月十一日、この地で六十八歳の生涯を終
えた。
「平田篤胤大人終焉之地」の石碑は、この地を
譲り受けた、仁平俊蔵氏が後世に伝えるため建立し
たものである。
墓は手形大沢にあり国指定史跡となっている。」
平田篤胤の墓は、手形大沢にあるということだが、
これは秋田大学の裏なんじゃよ。ここじゃ。
説明書きの裏には、「平田篤胤大人終焉の地」標柱が立っております。
そして、もう一つ小さな標柱がありますね。
これは、石敢當(いしがんとう・せきがんとう)と言って、丁字路等の突き当りに置かれた魔除けだということです。中国発祥の物ですが、日本では沖縄に多く置かれているとのことですが、なぜか秋田市にも多く設置されているようです。みんな大好き「二〇世紀ひみつ基地」さんで特集がされていますので、興味があれば参照ください。
えー、でもここは南通と交差している十字路だよね。
丁字路ではないような。
バカモン!!
我々の頃は、南通など無かったんじゃよ!!
平田篤胤終焉の地の石敢當はここにありますね。これが江戸時代の地図上ではどうなるかといいますと、
南通が江戸時代にはありませんので、石敢當は丁字路にあることになるのです。
南通は近代になってから作られたことがわかります。
ここまで書いてから、「二〇世紀ひみつ基地」さんにもこの平田篤胤終焉の地の石敢當の記事があったことをおもいだしました。この石敢當は、南通を作る際に埋められ、拡幅工事のときに発掘されたそうな。
こちらの平田篤胤終焉の地にあるお屋敷には、りっぱな土蔵が残ってますね。
江戸時代からものですかね?
平田篤胤終焉の地から参勤交代の道を南下します。
右手のお店「BEER FLIGHT」さんは、クラフトビールを出してくれるお店だそうで、品揃えがとても多いそうです。
白くま父さんは、まだ行ったことはないのですが、毎年秋田市で開催されている「秋田地ビール三大祭り」に欠かさず行っておりますので、とても気になります。
というか、秋田地ビール三大祭りはコロナ禍でここ3年中止になってますので、白くま父さんは地ビール摂取不足です!!是非行きたいです。
「BEER FLIGHT」さんから南へ200mほど進みますと、比較的大きな十字路があります。
この十字路の右手には稲庭クリニックさんがあります。
でも、この十字路を曲がってはいけません。まっすぐ南下してください。
十字路から南下しましと、右手に「おかず家」さんが見えてきます。ここが目印です。
参勤交代の行列はここを右折し、西に向かいます。
もう住所は楢山登町なので、ゴールが近づいてきた感じがしますね。
でも、まだ「亀ノ丁廓」の内側に居るからな
「おかず家」さんを右折し、西に進みます。
すぐに丁字路となっておりますので、ここを左折、またまた南に進路をとります。
丁字路を左折ですぞ。ちなみに。。。
この丁字路にも電柱の後ろに石敢當がひっそりとあります。
ちなみに、この石敢當の写真は、2022年10月30日に開催された秋田スリバチ学会さんのフィールドワーク『「久保田城下」の「内町」を一周してみよう!』に参加したときに、撮影したものです。他の方々との街歩きも楽しいものでしたよ!!
良い経験になったので、またフィールドワークに参加したいです。
秋田スリバチ学会さん!!
さて、丁字路を南下していきますよ。
やがて、このようなイビツな屈曲の道となります。
ここが、亀ノ丁廓の出口である「追手三の虎ノ口」です。
ここは、結構いい感じに「虎ノ口」の形が残ってますね。
虎ノ口を堀をわたる狭い土橋にしたのは、
敵が攻めてきたときに、土橋を崩して堀にしてしまって守りやすくするためじゃ。
ここに限らず廓を堀と土塁で囲んで狭い土橋で外に出るような構造にしてあるのは、
いざとなったら土橋を崩して守りやすくするためなんじゃよ。
江戸時代の地図で見てみると、現代では堀や土手は無くなっていますが、そのまま道の形は残っていることがわかりますね。
かつての秋田市中心部はまさに城塞都市だったんですねー
「追手三の虎ノ口」の右手には中通高等看護学院があります。
このイビツな道をグイグイと進み、かつての「追手三の虎ノ口」を通過します。
はい、ここはもう城外・廓の外です。参勤交代の道を南に進みます。
どんどん、南に進みますと、
はい、「秋田県南部羽州街道歩き旅 八橋一里塚〜牛島一里塚編 その8」でたどり着きました與次郎稲荷神社跡に到着します。ここで、参勤交代の行列は羽州街道へ合流するのです。
さ、お殿さま
ここからが江戸までの旅ですぞ。
そうじゃのう。江戸は遠いのう。
まずは、お茶橋に行って我が城を眺めつつ一服するかのう。
秋田県立博物館デジタルアーカイブより「久保田城図」1885年(明治18年)
かつての久保田城が描かれた見事な絵が、秋田県立博物館デジタルアーカイブにありましたので、参照ください。佐竹の殿様がお茶橋からみた久保田城の勇姿はこんな感じだったんでしょうかねー。
ということで、佐竹氏の居城である久保田城から羽州街道に合流する楢山登町までの参勤交代の経路をたどった、秋田県南部羽州街道歩き旅 久保田城〜楢山登町編は今回のその3で終了となります。
次回は番外編2として茶町筋をたどる予定ですが、気分次第では大仙市への旅に入るかもしれません。
どうしましょうかねーご期待くださいw。
前回、久保田城〜楢山登町編 その2はこちら
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
東北森林管理局様、かつての「追手二の門(虎ノ口門)」跡が無いかどうか、見学させてもらえませんかねえ?
何もないのかもしれませんが、なにか形跡とか無いか見てみたいですーw
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参考文献1:渡部景一「図説 久保田城下の歴史」無明舎出版 2009
参考文献2:渡部景一「秋田市歴史地図」無明者出版 1984
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初稿:2022-11-16
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