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どうもー、白くま父さんです。
御所野一里塚〜川原田一里塚編に入って、今回で第4回目になります。
前回は、羽州街道からちょっと外れて寄り道をして、仁井田堰頭首工をみました。
今回も、寄り道をちょっと続けて、豊島舘跡を見に行きますよ!!
はい、ということで仁井田堰頭首工から、西側に戻りまして豊島舘跡に向かいます。
ここを、右折いたします。
仁井田堰に掛かっている橋を渡ります。
橋から仁井田堰を眺めております。絶景ですねー。
橋をわたってから、線路沿いに西進します。
やがて、線路が橋になっておりますので、下をくぐります。方向は北になりますよ。仁井田堰も一緒にくぐっております。
線路は複線化されておりますので、2つくぐりますよ。
この鉄橋の名前は「第三仁井田堰橋梁」と言うようです。なんと明治36(1903)年10年竣工です。
100年超えでーす。
ちょうど、橋梁の真下にいた時に秋田新幹線こまちが通過したのですが、シャッターチャンスをのがしたのか、写っておりませんでしたw
すぐに、また看板があります。右に曲がり、今度は東進します。仁井田堰とはお別れです。
線路沿いを進み、杉林に突き当たるまで真直ぐ進みます。
杉林に突き当たりましたら、左折、北進します。
小さな川?があります。ここを越えて真直ぐすすみます。ちょっとぬかるむかも知れません。
豊島舘跡の入り口というか、登山口にたどり着きます。
豊島舘跡案内図の看板があります。豊島舘は山の上に築かれていたことが記されております。
今はなき秋田のお店「マジカルママ」の表記が懐かしいです。御所野イオンもジャスコとなっております!!
「秋田市」教育委員会と「秋田市」の部分が修正されていますので、河辺町が秋田市に合併する前からある案内板ですね。
ちなみに河辺町が秋田市に合併したのは2005年で、平成の大合併の頃です。
はい、またまた今年の冬の大雪のせいでしょうか?看板が倒れております。。。。
八橋一里塚〜牛島一里塚編 その3で倒れていた通町のせきやさんの前の菅江真澄の標柱とおなじような悲しみが感じられます。はやく直してくださいな、秋田市教育委員会様。
このまま朽ちていく前に、記載内容を書き出しておきましょう。
「秋田県指定文化財(史跡) 豊島舘城跡 平成十一年三月十二日指定
豊島舘城跡は、一九九九年(平成十一年)三月河辺町の文化財(史跡)として指定された。
舘は岩見川の右岸に望み、山稜の末端を利用した中世の山城で、要害天険の地に造られていて、主郭は標高八十五メートル、比高七十八メートルの高さにある。
言い伝えによると、永正三年(一五〇八)源頼朝の武将、畠山重忠の末裔豊島玄蕃頭(畠山荘司次郎重村)が常陸よりきて豊島城主となり、豊島郡三百歩を領したといわれ、当時豊島氏は秋田安東氏の勢力範囲にあって、角館の戸沢氏、横手の小野寺氏の押さえとして重要な役割をはたしていた。
城跡は中世の姿をとどめ、主郭、帯郭、腰郭、竪堀、堀切、土橋、満蔵寺等、多くの貴重な遺構を残している。
平成十一年三月十二日 秋田市教育委員会」
畠山重忠といえば、源頼朝を助け鎌倉幕府成立に貢献した功臣ですが、頼朝死後の権力闘争で北条氏に討たれた人ですね。詳しくは、ウィキペディアの畠山重忠の乱をご覧いただければよろしいかと。
この畠山重忠さんは、よほど名家のようで、末裔を称する武家は結構いたようですよ。伊達政宗のお父さんを拉致してしまい、火縄銃で政宗に撃ち殺されてしまう二本松義継も畠山さんですし。
2022年の大河ドラマ 鎌倉殿の13人で、畠山重忠は大きく取り上げられていましたね(2022年9月18日追記)
豊島玄蕃さんも、畠山の名にあやかったのでしょうね。ウィキペディアに豊島玄蕃さんも豊島休心という項で記載がありますので、ご覧ください。
ところで「歩」は「坪」と同じ面積ですから、豊島郡300歩を領したというのは何か狭くないかな?なにか間違ってる?白くま父さんが勘違いしてる?300歩=300坪=一反ですから、田んぼ1枚ですよ?それで領したって言われてもねえ。
満蔵寺は戸島に今もあります。戸島は、豊島舘の城下町だったのでしょう。
また、大仙市協和 一ノ渡には豊島姓の家が沢山ありますが、この豊島舘が落城した際に、協和まで落ち延びて土着したという言い伝えがあるそうです。この羽州街道の旅で協和一ノ渡にはいきますから、またその話に触れることになると思いますよ。ちなみに、白くま父さんの小学校の担任は協和の出身で豊島先生でしたよw
こちらの標柱は、かなりあっさりした説明となってますね。
「豊島舘跡
(県指定 史跡)中世の舘で、舘主は、はじめ畠山氏のち羽川氏となり、地名の戸島姓をなのったといわれています。」
前出の看板より前に建てたのでしょうかね?
こちらには、豊島舘の植生について、紹介があります。
今回の探索のついでに見つけられるかな?
看板の横には「熊注意」の警告がありました。注意して登りますかね!!
熊出るの?怖い!!
お前も、白くまじゃねえかw
はい、登り始めてすぐ1つありました。エゾニュウですかね。秋田ではニオサクと言ったと思います。
山道をどんどん登ります。階段あるところもあれば、ただの斜面を登る道もあります。
またまた、熊注意でございます。よほど出るのでしょうか?
まずはここを右に行きます。
杉林の中の道を通っていきます。
!!
うわ!!熊の糞だ!!
いるよ、ここ、熊いますよ!!
((( ;゜ Д ゜)))ガクガクブルブル
探索中に出会いませんように。。。。構わず進みますと
広いところにでました。
ここは、前御殿という建物があったところのようです。
仁井田堰頭首工と、向こう岸に戸島の町が見えます。いい眺めですねー
空港の方を眺めています。見渡す限りの田園風景ですね。あと2週間もすれば田植えですね。
さて、杉林の道を戻ります。
熊の糞の付近の杉の木です。樹皮が剥がされたのかブサブサです。こわーい。
「危険、この先斜面が崩壊しています」という看板が崩壊しているのですが。。。。また、樹皮も剥けてるし。。。。崩壊しているところはわかりませんでした。
熊注意のところを、左に行くと、ここにでます。「矢竹」発見でございます。これを城に植えて矢を作る材料にしたのでしょうね。
すぐ横に、「アザミ」の。。。表示だけ発見wアザミはどう見てもありませんねえ。ここの左側にある階段を上がっていきます。
結構急な階段を上がっていきますと
広いところに出ます。
でも、ここには標柱はありません。でも、絶対なにか建物があったような平らな土地です。
たぶん、これが「アザミ」じゃないかな?
ここから、さらに上に登る階段がありますので、登ります。
また、広いところに出ます。シンボル的な大木が右に、左に標柱が見えます。大木はスギかな?
大木の根本には何か呪術的なことをしたのか、石が置かれています。いたずら?
うーん、「フキ」は生えてないですねえ。
ここは、奥御殿という建物があったそうです。「エゾニュウ」はここには生えてませんねえ。入口近くでもう発見済ですよ!!
奥御殿からも、戸島の町が見下ろせます。城下町だったんですねえ。
とても良い眺めなので、お弁当を持ってきてピクニックにちょうどいいかも知れませんよ。
夏場に豊島舘跡に登るのは、結構草が生えていて大変だと思います。早春のこの時期が草も少なく、虫もいないので、おすすめです。でも熊にはご注意を!!
それでは、下山しますかね。羽州街道の旅に戻らないと!!
木の切り株の中心が腐って抜けて、そこから笹?矢竹?が生えています。自然の勢いを感じますね。
下山途中に「カタクリ」の看板をみつけました。え?カタクリなんか無いじゃんと思いましたが、
よくよく見ると、紫の小さな花が咲いてます。これがカタクリ?違うような?とても、ユリ科の植物にはみえませんねえ。
ちなみに、昔は片栗粉はカタクリの根の部分からとったデンプンだったそうですが、いま売っているのはジャガイモからとったデンプンだそうです。安くて大量に出回る片栗粉ですから、ジャガイモでしょうねぇ。
ということで、今回はここで終わりにします。その3、4と仁井田堰頭首工、豊島舘跡に寄り道しましたが、次回は羽州街道に戻って開始します。
次回は中断してた豊成橋、むかしの三ノ渡からの開始だね?
そうなります。
でも、気になる資料を見つけちゃって。。。。どうしようかなー
その5に続きます。
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
豊島舘跡入り口の「豊島舘城跡」の看板、倒れてますのでどうか修繕をお願いします。秋田市教育委員会様。300歩を領したのは、何か間違ってますよね?
また、植物の看板は、その植物が生えている場所に移設されたほうがよろしいかと思いますよ。
あとは、景色が結構よろしいですので、うまく公園として整備すると良い観光スポットになるかも知れませんね。お城マニアの方はそっとしておいてほしいかも知れませんが。
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初稿:2021-10-17
追記:2022-9-18
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