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前回、八橋一里塚〜牛島一里塚編のその9(完)はこちら
どうもー、白くま父さんです。
前回ようやく八橋一里塚〜牛島一里塚編を終えまして、今回から牛島一里塚〜仁井田一里塚編を始めますよ。
まずは、今回の「牛島一里塚」から「仁井田一里塚」までのコースです。
2021年現在の地形図では、以下の経路になります(経路は参考文献1、2、一里塚の場所は参考文献3を参考にしました)。
黄緑色の部分が、前回まで歩いた経路となります。今回の旅の経路となる羽州街道は以下となります。
牛島一里塚(参考文献3) → お茶屋橋で猿田川を渡る → 現国道13号線と合流(仁井田二ツ屋) → 現国道13号線から分かれる(仁井田栄町) → 切上 → 仁井田一里塚(仁井田目長田)
本当にこうなの?この経路が昔のメインストリートである羽州街道?いまの主要道路から大分ずれてるじゃないの?と疑うのは良いことなので、もうちょっと古い地形図も観てみましょう。
下記は、大正元年(1912年)に帝国陸軍が測量し、昭和13年(1938年)に修正した地形図です。
(元の加工をしていない地形図を見たい方はこちらをご覧ください。)
赤線の経路が「牛島一里塚」から「仁井田一里塚」
どうです。だいぶ現代の主要道路・宅地が削ぎ落とされましたね。戦前は国道13号線は無かったんですね。牛島ー仁井田間はほとんど田んぼで、この100年間でだいぶ宅地化が進んでいることが解ります。我が母校、秋田南高校のある場所は潟だったんですね。
さて、それじゃあ、今回の旅を始めますか。
おい!牛島一里塚の公図の件はどうなったのよ?
おっw
旅を始める前にまずはそっちやりますかね!!
ーーー
前回の八橋一里塚〜牛島一里塚編のその9(完)で、白くま父さんと佐竹の殿様は、参考文献3の示す牛島一里塚跡にまでたどり着きました。
でも、後から発見した秋田県公文書館アーカイブスの絵図2枚から、参考文献3の示す場所よりももっと牛島橋側の道の近くなのではないかと、疑問を持ったところで前回を終えたのでした。
僕の高校の同級生がちょうどこの辺りが実家なのでなんとなく土地勘があるんですよね。
それで、2021年5月25日に、母上の通院付添のため秋田市に行ったんですけど、午前中で用が済みましたので、これ幸いと秋田市役所 分館1階にある文書法制課窓口へ午後から行ってきました。
とくに、窓口っぽいところは実際無いので、最初はここで良いのかチョット戸惑いましたが、勇気をだして職員さんに「公図が見たいのですが、どういう手続きをすればよいですか?」と聞くと、後はとても親切に応対をしていただき、牛島の絵図を見せてくださいました。
おっ!絵図あったんだな!ドキドキ
ありましたよー、明治時代の地租改正時に作成した牛島の地引切図が。これです。
こんなふうな表紙付きで、現物の古文書に触るような感じで緊張しました。貴重だ!!
これがこの絵図の題目ですね。牛島は元々河辺郡だったんです。太平川が秋田郡と河辺郡の郡境だったようです。
牛島町牛島字牛島と牛島3連続で真の牛島地区って感じです。
これが、字牛島の地引切絵図の全体図です。
右端の川が太平川で、真ん中にまっすぐ通っている赤い線が、羽州街道です。つまり、牛島橋から続く羽州街道沿いの地引切図となります。
そして、目を凝らして一里塚らしきものがないかと、秋田市役所の職員さんと目を凝らして30分位眺めました。他の絵図かも知れないと、他の絵図もどんどん出していただきましたが、結局この絵図に戻ってきて、黃緑色の部分に怪しいところを見つけました。
おもわず、白くま父さんは、
あ!!これじゃないですか!?うおー!!
興奮して叫んじゃいました。うるさくして申し訳ありません。黃緑色部分を拡大したのが下記です。
河邊郡牛島町牛島字牛島地引切図 牛島一里塚 予想部拡大 秋田市役所蔵
黃緑色で囲った部分が、「官有地第三種」とあり、道の両脇にあって如何にも一里塚っぽいのです。上側の官有地は地番「237」番、下側は地番「51」番です。
牛島地区は宅地化が進んでいるので住居表示が実施されています。なので、住所と地番が一致しません。市役所備え付けのブルーマップを見せていただき、この地番が、どの住所にあたるか確認します。ブルーマップとは、ゼンリンの住宅地図に地番を記載したもので地番と住所の対比ができまして、市役所や大きな図書館、法務局等で見ることが出来ます。秋田市だと明徳館とか県立図書館、秋田法務局で見られます。
上側の官有地は地番「237」番は、現在も「237」番でした。下側の官有地は地番「51」番は現在は「151」番で3桁目に1を付けて振り直したようです。
そこはどこだったか?現地に行ってみましょうW
地番「237」番は、ちょうど「牛島一丁目」バス停の後方のアパートの空き地というか駐車場?の部分にあたるようです。道路端の角張り方が、絵図そのまんまですね。
地番「51(151)」番は、その道路向かいにある、紫色(茶色?)の屋根の建物の位置にあたるようです。横の土地が道路になっちゃってますね。
そして、秋田初の総理大臣菅さんのポスターを貼っているのは、「居酒屋ふなき」さんです。
つまり、前回の八橋一里塚〜牛島一里塚編のその9(完)で白くま父さんが予想した場所とほぼ一致することが解りました!!
お!!すげー
ブルーマップで確かめた瞬間、身震いがしましたよw
さて、参考文献4から、当時の牛島橋とお茶屋橋から牛島一里塚までの距離が大体わかりますので、比較してみましょう。
国土地理院 地図のインターネット版で、現代の距離の測定が出来ますので、現在の分はそれを利用しました。
牛島橋〜 牛島一里塚 | 牛島一里塚 〜お茶屋橋 | 備考 | |
参考文献4 の距離 | 約5.2町 約567m | 約6.4町 約698m | 一町=109m と換算 |
参考文献3 の距離 | 約8町 約867m | 約2.7町 約293m | 国土地理院 地図を測定 |
白くま父さん の距離 | 約4.9町 約532m | 約5.8町 約628m | 国土地理院 地図を測定 |
町からメートルの換算や、太平川、猿田川の流路の微妙な変更や、測定の誤差を考えても、牛島一里塚はどちらかと言うと牛島橋よりにあるようです。どうでしょう?ほぼ白くま父さんが予想する場所の距離は、参考文献4に近いと言ってもいいと思いますがどうでしょう?
今回白くま父さんが予想する場所、ほぼ牛島一里塚確定言って良いですかね?
念の為、この近所に実家がある高校の同級生に聞いてみなさいよ。
何か知ってるかもよ?
実は、高校卒業以来、つまり30年位あってないのですよ。
どうしてるかなぁ?
っていうか、高校の同級会って有ったんだべか?
おいらだけ呼ばれてない? T へT
牛島一里塚について何か情報をお持ちの方、コメントよろしくおねがいします。
よろしくね
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さて、それでは今回の旅を進めましょう。
まず、参考文献3の示す、牛島一里塚である蔵のあるお宅付近からスタートします。南下しますよ。
すると、やがて右手に石碑群が見えてきます。
こちらには、奥にある石碑の縁起が書いてあるようです。本多さんと寺町にある妙光山本妙寺さんによって奥にある石碑が嘉永6年(1853)に建てられたようです。
気合の入ったお供が刻まれておりますね。嘉永6年といえばペリーが浦賀にやってきた年ですから、これからどうなるか不安で石碑を建て祈らずには居れなかったのかも知れませんね。
場所は、サトウ書店さんの道路向になります。
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そして、さらに羽州街道を進みますと、もう何度も名前が出てきている御茶橋(御茶屋橋)に到着します。
橋のたもとに、名前の由来が書いてあります。
んー、何か微妙に違うんだけど。
御茶橋が正しい名前なんだけどね。
茶店で御茶を飲んだんですか?
茶店っていうか、この橋の上で床几に座って城の方を見て茶を飲むんだよ。
家臣共にも振る舞うんだけどね。
もし、茶店が有ったとしてもそれは町人共が使うんじゃね?
毎回、御茶を飲まれるんですか?
もう、初代藩主から恒例でね。
江戸に行くときは、高齢の藩主はなんかは、
もう城を見るのは最後かもと思いながら飲んだりしたもんだし。
帰国したときは、感動を味わいながら飲むよね。
それじゃあ、今回も橋の上で飲んでください。
早朝なので車は、なかなか来ないですから!!
よし!!グビグビっ
炭酸うめーーーw
炭酸ですかw
っていうか、殿!!
殿は利休七哲の1人、古田織部さまのお弟子さんですよね。
つまり千利休さま直系の茶人ですよね!!
良いんですか?それでw
だって、炭酸うまいしw
っていうか、建物邪魔して、城見えないんだけど
牛島というか秋田市も宅地化、都市化が進みましたから、ここから千秋公園は見えなくなってしまいましたね。
御茶橋は、いまはお茶屋橋と呼ばれるようになってしまいました。
さて、今回はお茶屋橋に着いたところで、終わりにします。次回も仁井田一里塚を目指して進みますよ。
その2に続きます。
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
牛島一里塚のご近所の方、何かご存知の事がありましたら情報おまちしておりまーす。
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参考文献1:秋田県教育委員会「歴史の道調査報告VIII 南部羽州街道」1986
参考文献2:藤原優太郎「羽州街道をゆく」無明舎出版 2002
参考文献3:佐藤晃之輔「秋田・羽州街道の一里塚」秋田文化出版 2013
参考文献4:伊澤慶治「御参勤御道中日記」彦榮堂 1989
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初稿:2021-6-4
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