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どうもー、白くま父さんです。
さて、牛島一里塚〜仁井田一里塚編に入って、今回は第2回目になります。
どんどん進めていきますよー
牛島一里塚跡から仁井田一里塚までの経路は以下のとおりです。前回までで、御茶橋(御茶屋橋)まで歩きました。
御茶橋は現在は正式名称も御茶屋橋になってしましましたねー。親しみやすい名前が残ったという感じですかね。
現在の橋は平成4年に12月に完成したといことですから、白くま父さんが南高を卒業してから架け替えられたんですね。
ちなみに高校1年の冬に平成元年になりました。
さて、今回の旅を進めましょう。羽州街道を南下します。
二ツ屋上丁バス停通過です。夏は自転車通学でしたが、冬は秋田駅からここまでバスで通ったものです。
当時は雪が降ってからも自転車でねばったものですが、路面が凍るとタイヤがスリップしてもう駄目なんですよね。
いや、冬は自転車のっちゃ駄目ですよ。当時はおおらかで冬に自転車乗っても学校からも怒られはしませんでしたがね。
さらにどんどん、羽州街道を南下しますと、とうとう現在の国道13号線と今回初の合流と成ります。
二ツ屋交差点で羽州街道は国道13号線に一旦合流します。まあ、江戸時代とは比べ物にならないくらい拡幅されているのでしょうがね。
さて、このまま進むのも面白くないので、ちょっと国道13号線を戻って懐かしの母校、秋田南高校をちょっと見学しましょうかね。
南高校前地下道を通って、国道13号を渡ります。
地下道を抜けると、懐かしの校門がありますね。
でも、当時の校門はガッツリ閉鎖されており、当時校舎が有ったはずの場所はグラウンドになっておりました。。。。
そして、かつて秋田県教育センターがあった敷地に、校舎が建っております。懐かしいのは、旧校門と地下道だけか?!
ちょうど、当時の校舎は多目的グラウンドとなっている部分にありました。
一つの教室に対してトイレが一つ付いているという謎仕様の校舎で、当時としても変でしたね。
現在の校舎がある部分は、南高ではなく秋田県教育センターでしたね。
中等部を増やしたから、手狭になったんですかね?
ちなみ、白くま父さんは、昭和63年英語科が設立された年に入学しました。普通科ですね。
一学年普通科9クラス、英語科1クラスの10クラスありましたね。
三年間男子クラスでした。女性の先生が妙に嬉しそうに我々のクラスに来るのが印象的でしたなw
あの先生たち元気かなぁ?
あのかまぼこ型の建物は当時もあって、小体育館でしたね。体育でバレーボールとかバスケットに使いましたね。
野球場も当時のままですね。でも、あんまり懐かしくないなあ。
それを言うなら、ここは昔は大きな潟だったんだぞ
ちっとも懐かしくないぞ!!
上には上が居ましたw
それでは、当時の素晴らしいスケッチを見ていただきましょう。
秋田県公文書館のデジタルアーカイブにある菅江真澄の「菅江真澄遊覧記 勝地臨毫 出羽国秋田郡5 大野ノ湖」です。
注記がない元の絵が見たい方はこちら
これは、大きな潟!!というか菅江真澄さんは湖と書いてますね!!南高どころか、大住や大野の辺りまである巨大な潟が有ったんですね。
秋田ではおなじみの三湖伝説の龍・八郎太郎が八郎潟と田沢湖を往復する際に、中休みで一泊する地との伝説があったそうで、その時は中休潟と言ったそうです(Wikipedia:仁井田(秋田市))。
俺、鷹野(狩り)でよく来て、菱喰(鴨の一種)をここで獲ったもん
梅津政景日記に記載がありますもんね。
っていうか、菱喰(ヒシクイ)はいま天然記念物ですけどね。
ここで、国土地理院で治水地形分類図を公開しておりますので、見てみましょう(元の図を見たいかたは、国土地理院のHPをどうぞ)
治水地形分類図で表現されている地形分類等の記号の意味は、こちら
水色のシマシマは、昔河川だったところで、赤と黄色のシマシマは盛土がされているところです。
秋田南高校の辺りから広範囲に潟であったことがわかります。
菅江真澄のスケッチが大げさではないことが解るよね。
街道は大きな潟の横を通っていたんだよ
潟の大きさが解りますね。
とこで、なんか四ツ小屋の辺りから、仁井田の一里塚の辺りを通るように、
雄物川は昔大きく蛇行をしていたんですね!!すげー
これが、いま古川として痕跡として残っているんだね。
いつ頃、雄物川はいまの流路になったんでしょう?
さあ?俺は参勤交代で帰国した時、刈和野から川船に乗って、
目長田港から上陸して御茶橋に向かったことあるよ。
この辺だったけどなー
目長田はこの辺の地名として残ってるよなあ。
目長田港、雄物川流路変更、調べなきゃ、宿題だなぁ。
調べておきますね。わかったら追記いたします。仁井田一里塚に到着するまでにわかるでしょうか?
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さて、南高のかまぼこ型の小体育館(現屋内練習場)と国道13号線の間には、こんな看板があって、その下に石碑群があります。
私が南高に通っていた時にきいた噂と言うか話では、昔これらの石碑群は元々南高の門辺りに有ったそうですが、南高を立てる時か国道を通す時に
一度撤去されたそうですが、その後交通事故が多発したため、今の位置に石碑群を移設したところ事故が減ったというのがありましたよ。
道祖神だからなー、交通安全には関係あるよねーたぶん
太平山講、金毘羅大権現の参拝講は、八橋一里塚〜牛島一里塚編 その7でも出てきましたね。秋田ではメジャーな参拝講なんでしょうね。
二十六夜、二十三夜はなんでしょうね。Wikipediaによるとこれは月待塔と呼ばれるもののようです。
これも月待行事という講の一種のようで、旧暦の23日、26日の夜に集まって飲食を共にしてお経を唱えて悪霊を追い払うという民間信仰の石碑ということです。
庚申と彫られているのは、庚申塚ですね。
これは、庚申待という行事を行う庚申講(これもまた講ですね)の記念碑になります。
庚申待(こうしんまち)というのは、歴史好きならNHKのタイムスクープハンター『眠ってはいけない戦国』で観たことがあるかも知れませんが、道教の伝説に基づくものだそうです。
伝説では人間の体には三尸の虫というのがいて、その人間が悪いことをしていないか見張っており、庚申の日(旧暦で60日に一回来る日)の夜に寝ている間に体を抜け出し、エンマ大王に告げ口に行くのだそうです。
告げ口によっては、寿命が縮んだり、死んだ後地獄に落とされたりするので、眠っている間に虫が抜け出さないように、庚申の日は皆で集まって夜通し寝ないように互いに見張りながら、徹夜で料理を食べて、酒盛りをするのだそうです。
これが、庚申待を行う庚申講です。
庚申待を3年18回続けた記念に建立されるのが庚申塚です。
ただ、白くま父さんが小さい頃、おばあさん(大曲出身)にきいた話では、虫なんかの話はなく、一種の村の親睦会で、日付を決めて集まって呑むきっかけしている感じだったみたいですよ。
たぶん、月待講も庚申講も太平山講も金毘羅講も、今で言う町内会の前身みたいなかんじですよね。
講をつくって皆で行動することで、村の結束を固めたんだろうね
一番端っこにあるのは、馬頭観音の石碑ですね。
昔は、移動や荷物を運ぶのに馬を使用しましたので、馬が身近な存在でした。愛馬が死んだ際に供養のために馬頭観音が建てられたようです。
これらの石碑は、大体その村の入口とか出口部分にあるのが普通ですので、これから先、結構見ることになりますよ。
村に入ってくる悪霊とかも、入口とか出口から入ってくるから、
これらの道祖神に守ってもらおうとしてたんだろうな。
それでは、今回はまた二ツ屋交差点にもどって、南高の方向を振り返って終わりましょうか。
さらば、変わりすぎて懐かしくない母校よw
口悪いなw
その3に続きます。
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー
南高は、大昔の卒業生が訪問しても見学させてくれるんですかね?
もし、開放日とかあったら教えてください。というか秋南祭?南高祭?ってまだあります?
あと、空港の近くの公園まで20Km くらい歩く行事って、まだあります?
おしえてくださーい
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初稿:2021-6-10
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