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どうもー、白くま父さんです。
牛島一里塚〜仁井田一里塚編は、今回で第3回目になります。
今回はどこまでいきますかね?
牛島一里塚跡から仁井田一里塚までの経路は以下のとおりです。前回までで、仁井田の二ツ屋交差点まで歩きました。
二ツ屋交差点から、どんどん進んでいきますよ。
二ツ屋付近にあった町名案内図です。
羽州街道と国道13号線が合流していることが解りますね。
おっと、この案内図は、古いですね。今の南高の校舎の場所にまだ県教育センターがありますw
さ、国道13号線を南下していきますよ。
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大野口バス停です。どんどん、進むつもりでしたがここでストップです。
羽州街道から大分外れるのですが、この大野口のバス停の国道13号線を挟んで向かい側から分かれる道を1km程度進むと、仁井田大野、昔の大野村に至ります。
そこで、元禄9年10月12日(1696年11月6日)事件が起こりました。
俗に言う「大野の撫斬(おおののなでぎり)」です。
この事件のあらましが、供養碑に刻まれておりますので、引用します。
「 元禄九丙子年七月二十四日 大野村古川で 魚釣りをしていた久保田藩士と当村百姓が
些細なことから争論となり 侍は百姓に刀傷 を負わせたので 激怒した村人たちは
件の侍を打ち据え縄掛けにした
これが公儀取り調べの結果 武士を面縛(後ろ手に縛り、顔を前に出させ晒すこと)した
罪は重いとして同年十月十二日 大野古川べ りで百姓二人は磔 二十人は斬首 かくて村
人二十二人が非業の死を遂げた
ここに諸精霊の二百八十七年忌にあたり 縁りの地に供養の石碑を建立する
併せて 被害者の百年忌に建立された石塔 を治左衛門家墓地より当所へ移転する
昭和五十七年十月十二日 建立 大野郷念仏講中」
このように、久保田藩士と些細なことで争いになり、村人22人が処刑されたという無残な事件なのですが、処刑されたのであれば、撫で斬りとはいいませんよね、普通。
実は、処刑されたという記録が見つかったのは昭和になってからで、それまではもっと殺伐とした村の言い伝えがありました。
それは、村人をうらんだ久保田藩士が、小屋を建てそこに大野村の戸主(家の主人)全員を呼び出し、一人一人小屋に入れて全員問答無用で首をはねたというものでした。つまり、公的ではなく、私刑、斬り捨て御免と言うやつですね。
その数22人で、大野村は当時戸数22件であったそうですので、すべての家の主人が殺された、つまり「撫で斬り」にされたという、あまりにも無残な事件の言い伝えなのでした。
そして、この供養碑が建っている場所が、小屋がたてられ撫で斬りが行われた、もしくは公式に処刑がされたという場所だということです。
現在の仁井田浄水場に至る、古川をわたった橋の近くにその場所はあります。
これらの内容は、参考文献1にくわしいのですが、Wikipedia:大野の撫斬がほぼ参考文献1の内容を網羅しておりますし、ああいえばaivaさんの大野の撫斬にはもっと詳しいが記載されていますので、興味のある方はご一読ください。
参考文献2によるとこの事件を起こした藩士は、その後さしたる事跡も残さず再び別の別件で処分されたということですので、せめてもの慰めでしょうか。
南高に通っていた時分に、大野の撫斬を噂できいた際の衝撃が忘れられませんでしたので、記載させていただきました。
(当時は大住のあたりで昔、村人が撫で斬りにあったと噂を聞きましたが、高校生なので正確ではなかったですね)
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それでは羽州街道・国道13号線に戻って進みましょう。
青看板が出てきましたねえ。羽州街道は仁井田と書いてある方面に進みますので、早くも現国道13号線とはお別れとなります。
ここが、羽州街道と国道13号線の分岐点となります。左が羽州街道、右が国道13号線です。
国道を車で走っていると、ここはなんでこんな道路の作り方になってるんだ?変だなあと思うところがあると思います。
真直ぐ進む道があるのに急に曲げられたりする場所、そこに旧道が隠れていることが多いですので、興味を持たれた方はご近所のそんな気になる道を探訪すると新たな発見があるかも知れません。
きっと、とても楽しい興味深いことが待っていますよ!!
君も旧道をたどろう!!
郷土の歴史にぜひ興味を!!
国道13号線と分かれて、羽州街道を進むとすぐ橋を渡ります。これは川ではなく「仁井田堰(せき)」と呼ばれる堰です。
仁井田堰に付いては、後ほど触れますのでここでは詳しく述べませんが、
この後羽州街道はしばらくこの仁井田堰に沿って進むことになります。まだですよ。
ここで、また町名案内板がありました。このあとどのように進むか、迷わないように確認です。
国道13号ものすごいカーブをしてますねー。羽州街道はどう進むでしょうかね?まあ、カーブするんですけどw
まだカーブしないで、直進を続けると石碑群があります。ここが仁井田村の入り口なんでしょうね!!
左は「羽黒山、湯殿山、月山」の出羽三山(山形県)の参拝講にプラスして「太平山」の参拝講も記念しているという、なかなか贅沢な石碑です。
その隣はおなじみ「庚申塚」。
その隣は「山神宮」とあります。山の神さまを祭っているのでしょうか?ちょっと調べてみましたが、これというのがわかりませんでした。Wikipediaによると山神社という神社が各地に鎮座しているということですので、関係があるかも知れません。
その隣はお地蔵さん、その隣は「唐松大神」と読めますので、おそらく大仙市協和の唐松神社のことでしょうね。唐松神社は羽州街道筋にありますので、後で行きますよ。期待下さい!
そして、この石碑がある側の建物は、「切上(きりあげ)公民館」です。
この辺の今の住所は仁井田本町ですが、昔は「切上」と言ったそうで、それが公民館の名前に残っているのですね。
近くの田んぼの住所にも切上の地名が残っているようです。
この「切上」という地名は、「大野の撫斬」の事件に由来するそうです。その関連する部分をWikipedia:大野の撫斬から引用します。
「久保田城下の梅津邸から斬殺を思いとどまらせる為の急使が送られたが、
使者が武士達に出会った時は既に斬殺を終え引き上げて来るところであった。
梅津家はこの地域の地頭で、黒澤市兵衛の主人であった。
使者が「梅津様より取り止めのご沙汰」と言うのに対し「もう切上終わった」と武士達は答えた。
この「切上」が由来となり、現地の集落を「切上」と呼ぶようになったという。」
なんとも、衝撃的な地名の由来です。
ただ、単に村の端を意味する「切上」という地名が元々あって、それが伝承と関連付けられた可能性もあるようですよ。
いずれにしても、「大野の撫斬」事件は、この地域に大きな影響を及ぼしているのです。
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切上公民館から、さらに羽州街道を進みます。
やがて、ちょっと変則的な交差点に到達します。白くま父さんは、ここを勝手に「切上げカーブ」と呼んでおります。
なぜなら、羽州街道はここで急激に左折するからですw
この交差点には巨大な庚申塚があります。まるで、ここがなにかの目印のようにドンとあります。
寛政十二年(1800年)とありますので、221年もここにあるわけです。
それでは、今回は切上カーブの巨大庚申塚に到達したところで終わりにします。次回はおそらく仁井田一里塚到着でしょう!!
その4に続きます。
前回、その2はこちら
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
「山神宮」についてなにかご存知の方は、情報・コメントをお願いいたしまーす。
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参考文献1:相場信太郎「大野の撫斬」昭和56年
参考文献2:秋田市「秋田市史 第三巻 近世」平成15年
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初稿:2021-7-6
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