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前回、石川一里塚〜船沢一里塚編のその3(完)はこちら
どうもー、白くま父さんです。
前回、 石川一里塚〜船沢一里塚編を終えて、ようやく秋田市を抜けました。
これから大仙市の旅になるわけですが、その前に秋田市での落ち穂拾いをしておこうと思います。
そこで今回は番外編1として、佐竹氏の居城である久保田城から羽州街道に合流する楢山登町までの参勤交代の経路を旅します。
この経路自体は以前、八橋一里塚〜牛島一里塚編 その8にて紹介したのですが、実際に歩き旅はしておりませんでしたので今回実際歩いたというわけですね。
それでは、復習も兼ねて経路を再度掲載しますね。ルートは参考文献1を参考にしました。
まずは、江戸時代の正保城絵図 出羽国秋田郡久保田城画図でルートを追ってみましょう。
(加工していない元の絵図を見たい方はこちら)
1,久保田城の「二の丸」をスタート地点として、
2、まず「上中城」へ出て南下し、
3、「追手門(上土橋門)」をから
4、「広小路」へ出て西へ進みます。
5、その後「中土橋」手前で南に曲がり、南に進み
6、「追手二の門(虎ノ口門)」を通過し、
7、その後「追手三の虎ノ口」から、楢山登町へでて元與次郎稲荷前(矢印先端)で、羽州街道に合流となります。
この道筋は、一部を除いてほとんど残っていますので、2022年現在の地図でも見てみましょう。
秋田市に土地勘がある人ならご存知とは思いますが、ブログを読まれる方は秋田に詳しくない方も居られると思いますので一応記しますが、「久保田城」は現在「千秋公園」となっておりますよ。
1,千秋公園の「二の丸」跡をスタート地点として、
2、まず「上中城」つまり現在の秋田県立脳血管センター前へ出て、大手門通りを南下し、
3、「追手門(上土橋門)」つまり現在の千秋公園ポケットパーク付近から
4、「広小路」へ出て西へ進みます。
5、その後「中土橋」手前、つまり千秋公園入口交差点で秋田市にぎわい交流館AUを右手に見ながら南に曲がり、中通を南に進み
6、「追手二の門(虎ノ口門)」つまり現在の東北森林管理局の敷地内を通過し、秋田南税務署の角を曲がって南に進み
7、その後「追手三の虎ノ口」つまり現在の中通看護学院のある辺りの小路から、楢山登町へでて元與次郎稲荷前(矢印先端)で、羽州街道に合流となります。
八橋一里塚〜牛島一里塚編では、楢山登町からわしが旅に加わったわけじゃ
そこでお殿様は言われましたよね。
「追手三の虎の口まで久しぶりに通ったけど、せっかく防御のために作った堀、結構埋めちゃってたけど、大丈夫なの?」と
言った言った。
だって一生懸命防御のために堀や土盛りをしたのに、大分なくして城がほぼ丸裸なんだもん。これじゃあ、大阪の陣の大阪城と一緒よ。
この時は現代に生まれた白くま父さんとしては、今一ピンとこなかったのです。
でも、正保城絵図 出羽国秋田郡久保田城画図を参考に、現代の国土地理院地図に堀などを書き込んでみましたら、お殿様の不安はわかりましたよ。
まずは、見てくださいな、1週間くらいは時間がかかった力作ですw
見てください、この堂々たる城構えを!!すばらしい城下町を!!おそらく、少々間違いはあるかも知れませんがご容赦くださいな。
城の東部は、現在の秋田駅付近から沼など、低湿地帯が広がっており防御上都合が良かったと思われます。手形は「手潟」という地名だったようですし、長沼、赤沼の地名が残っているくらいこの辺りは広大な湿地帯だったのです。今は、すっかり干拓され商業住宅地ですがね。
城の南部は、南からの街道の入口となりますから、太平川、その内側に楢山の足軽屋敷、追手三の虎の口のある亀ノ町廓、虎ノ口門のある城正面の侍屋敷を囲んだ中通の廓と、何重にも防衛線が張られております。
城の西部は、こちらも土崎港からの街道の入口となりますから、寺町および六道の辻による防衛に始まり、その背後にある旭川で防衛しております。
城の北は、地図からは消えておりますが、天徳寺・平和公園のある五庵山、旭川、手形山を備えて防衛しております。
そして、城自体も今よりも何重に堀に囲まれており、今では想像できないくらい秋田市内は水路が張り巡らされていたことがわかりますね。
お殿様!!私はこの地図を塗りながらずっと感動しておりました。
今や市街地となっている秋田市中心部がこのように、このような見事な城塞都市だったということが、地図を塗りつぶすことによってドンドン浮かび上がってくるのです。
まさか、自分の生まれたあの見覚えのある場所が、昔は全然違う様相を呈していたとは!!
そうだろう、そうだろう。
常陸から国替えになったわしは、一生懸命考えて造ったんじゃ。
でも、秋田は20万石、転封前の常陸(現在の茨城県)は54万石。
父上(義重)からは、常陸水戸の城とくらべたら小城と言われたものだ。。。
(いまは、初代藩主義宣様になっておられるな)
常陸水戸には佐竹家の後は、水戸徳川家(水戸黄門で有名)が入られているんですから、江戸防衛のためには常陸は徳川家に必要な国でしたよ。
もし佐竹家が関ヶ原でちゃんと東軍についても国替えはされていたと、白くま父さんは思いますよ。
現在の秋田市の基礎をお殿様は造られたんですから、尊敬しておりますよ!!
そ、そうかのう
ま、関ヶ原で東軍(徳川方)についたら常陸の替地としては、出羽半国(秋田県)ではなく、少なくとも出羽一国(秋田県と山形県)だっただろうけど
出羽一国、半国の話は、横手の辺りを旅している時に、おそらく触れるでしょう。そう本多上野介正純ですね。ま、横手の羽州街道の旅はいつ頃になることやらw
さあ、それでは久保田城からこの見事な城下町を抜けて羽州街道まで旅を初めましょう!!
「久保田城跡
久保田城は秋田二十万石佐竹氏の居城である。
秋田初代義宣(よしのぶ)が慶長七年(一六〇二)入部し、翌八年現在地に築城した。
天守閣と石垣のない城として知られている。
本丸は明治十三年(一八八〇)七月の火災で全焼した。同二十三年公園として開放され、その後千秋公園と称し、現在に至っている。
公園面積一六二,三〇〇平方メートル
昭和六十一年三月 秋田市」
と言うことで、久保田城跡である千秋公園にやってまいりました。
おいおい、本丸が火事で消失しちゃってるじゃん。
公園ってなんだよ T_T
この案内板の7の辺の二ノ丸が今回のスタート地点です。ちなみにこの案内板は9のあたりにありますよ。
ここがスタート地点の二の丸跡です。春のお花見のとき、ここは人気のスポットですね。真ん中の緑地に皆さんシートを広げてお弁当を食べます。そして緑地を囲む道には、出店でいっぱいになります。
子供の頃、ミドリガメすくい、やったなー
2匹同時にすくうと何故か違反なんだよねー
二の丸跡にある標柱には以下の説明書きがあります。
「本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・吟鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊りの見物のために町人に開放されることもあった。」
参勤交代の際は、二の丸に集合して出発したんじゃ。
先に出てきた案内板の右下にある「2:追手門」が久保田城の正門ですので、そこへと続く「9:黒門」へと向かいます。
明徳館側の中土橋門(搦手門)は正門じゃ無いんですよ。
あれ?城内の紹介・案内はしないの?
すみません、今回は参勤交代経路の取材しかしていないので、また今度でおねがいします。
また番外編のネタが出来たなw
右手に秋田市立佐竹史料館がありますので、千秋公園に来たら観覧してみたら如何でしょう。観覧料はお手頃価格の100円で高校生以下は無料です。
初代藩主義宣公やお父上の義重公のカッコいい鎧が見られますよ。
お、いいねえ。
父上は「鬼義重」「坂東太郎」と呼ばれるほどの猛将だったんだぞ
実は初代藩主義宣公のお子様は皆早世してしまわれたので、結果的にその後の藩主は皆お父上の義重公の血筋となってしまったんですよ
佐竹史料館の横にはとても大きな石碑「太平山三吉大神崇敬の碑」がありますので、良い目印となるでしょう。
もちろんこれは秋田市の太平山三吉神社を崇敬する碑ですね。太平山三吉神社は古くから参拝講があるほど秋田県では人気の神様です。
それでは、二の丸から黒門に降りていきますよ。もちろん、まっすぐは降りられません。わざとこのようにS字に通路を曲げて、敵が攻めてきた時に容易に進めないように邪魔をするわけです。
さらに、この通路は小高い丘に囲まれていますので、攻め上ってきた敵は丘の上から城方に攻撃をうけるわけです。良く出来ています。
ここが黒門跡になります。左手に残る四角い石はおそらく黒門の礎石でしょう。写真に写っておりませんが礎石と思われる石は右側にもあり、対になっております。
黒門跡を通過したら、内堀を通過し大手門通りにでます。かつては内堀には唐金橋がかかっていたということですが、現在は土橋となっています。
それでは、大手門通りを南に進み、久保田城の正門である「追手門」へ向かいましょう。
千秋久保田町バス停前を通過します。
大手門通りの向かい側は、かつての「上中城」にあたり、現在は秋田県立脳血管研究センターや秋田県総合保健センターなどが立ち並んでおります。
白くま父さんの父上が脳卒中になった時、能研に入院しました。
そのとき偶然にも佐竹敬久知事も入院されておりましたよ。
お、我が子孫かな?
佐竹知事は佐竹北家(角館)のご当主で、血統的には御舎弟岩城貞隆様のご子孫のようですよ。
おお、弟の子孫か。
上中城はかつて佐竹氏の重臣たちの屋敷が置かれておりました。
秋田県公文書館デジタルアーカイブ御城下絵図で上中城を見てみると、向氏、今宮氏、山方氏、小田野氏、真崎氏、真壁氏、梅津氏、小野崎氏、矢田野氏などの屋敷が置かれていたようです(くずし字は慣れないと読みにくいですね)。
秋田県の方、ご近所さん、クラスメート、友人にこれらの名字の方居られませんか?
もしかして佐竹氏の重臣のご子孫かも知れませんよ?
常陸からついてきてくれた重臣たちじゃ
現在残っている内堀とはここでお別れです。
鯉が名残惜しそうじゃのw
大手門通りをさらに南下します。ここを右に行きますと、明徳館図書館、国学館高校などがあります。
明徳図書館のあたりは家老職を歴任した梅津氏の屋敷が置かれておりました。
牛島一里塚〜仁井田一里塚編 その4で紹介した仁井田を開墾し、仁井田堰を引いた梅津氏ですね。
ツツジが綺麗に咲いておりますな。春ですな!!
秋田駅前は、中央通りが駅へ向かう一方通行、広小路(秋田県道26号線の一部)が駅から離れる一方通行であり、この両方の通りで反時計回りの環状道路を形成しています。初めて車で来たら注意してくださいね。
反時計回り、英語で言うとcounterclockwise、白くま父さんは技術屋なのでCCWとよくいいますよ。
ちなみに時計回りは、clockwise、CWですな。
カッコつけやがって!!
大手門通りを南に(写真正面から奥方向)進んでいきますと、やがて広小路との交差点があります。
正面の大きな建物はなんと今はレオパレスだそうです。白くま父さんが学生の頃は電巧堂(デンコードー)でした。
エンジョ〜イ テクノラ〜イフ デンコ〜ド〜♪
CMソングが懐かしい!!
秋田では珍しくパソコンコーナーがあって、高校生の頃よく下校途中に寄り道して、PCゲームを楽しんだものです。
ソフトベンダーTAKERUも置いてあったんだぜ!!
二〇世紀ひみつ基地さんにも記事がありますので参照ください。
大手門通りが広小路と交差する地点の右側に千秋公園ポケットパークというちょっとした広場があります。
このポケットパークが大手門(追手門、上土橋門)跡です。標柱には以下の記載があります。
「久保田城の正門にあたる大手門の跡である。城下町から外堀に繋がる上土橋を渡り、かぎの手を左に曲がった所に二層の大手門があったが明治初期に取り壊された。」
おい!!追手門、壊したんかい!!
鈎の手の通路もまっすぐにしちゃってもう(泣)
鈎の手の道路は、車社会では邪魔ですからね。。。
ここにも案内板があり、以下の記載がありました。
「この公園は、秋田20万石佐竹氏の居城久保田城の城跡である。久保田城は、慶長7年(1602年)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣が翌8年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。
明治29年(1896年)造園家・長岡安平の設計により整備され、昭和59年(1984年)15代佐竹義榮氏の遺志により秋田市に寄贈されて、名実ともに秋田市の公園となった。
千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、「千秋」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものとされている。
平成元年には、「日本の都市公園100選」の一つに選ばれている。」
え?なんで初代藩主である俺は「佐竹義宣」って呼び捨てなのに、15代は「佐竹義榮氏」って敬称がついてるんだよ?
なんででしょうね?
(これはフォローのしようがないですぞ、秋田市さま。。。。汗)
それでは、久保田城大手門(追手門、上土橋門)に着いたところで今回は終わりにしたいと思います。
次回は、追手門をでて広小路をすすむところから始まります。
我が参勤交代の行列は出発したばかりじゃ
下に〜下に♪
その2につづく
前回、石川一里塚〜船沢一里塚編その3(完)はこちら
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
秋田市さん、千秋公園ポケットパークの案内板の説明書き、せめて佐竹義宣「公」とか敬称をつけてあげてください。お殿様が気にされておりますw
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参考文献1:渡部景一「図説 久保田城下の歴史」無明舎出版 2009
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初稿:2022-2-24
リンク切れ修正:2022-4-11
改定:2022-11-5
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