まとめページはこちら
前回その7はこちら
どうもー、白くま父さんです。
秋田県南部羽州街道歩き旅、8 回目です。
どうやらこのブログも三日坊主にならないで習慣化しているようです。どんどん、続けで行きましょう!!
八橋一里塚跡から牛島一里塚までの経路は以下のとおりです。前回までに大町筋、旭南二丁目、旧上鍛冶町の金神社まで歩きました。
今回も大町筋、旭南二丁目を南下します。
ーーーーーーーーーー
仕出し 三太さんですね。ホームページはこちら
有名店です。昔はTVCMもやられていました。
一昨年、白くま父さんの父上が無くなった時、法事のお弁当はこちらにお願いいたしましたよ。
どんどん、南下を続けます。
ーーーーーーーーー
右手にまたまた、金神社(かながみやしろ)が見えてきます。こちら、写真には写ってませんが、柵があって中には入れません。
標柱に「銅鐵器問屋 秋田市下鍛冶町 川村久吉」とあります。(ちなみに鐵は鉄の旧字です。)
この辺りは、旧下鍛冶町にあたるようです。
上鍛冶町、下鍛冶町に一つずつ金神社があるんですね。
本当に鍛冶屋さんの厚い信仰があったんですねぇ。
そして金神社の向かいには川村鐵工所さんがあります。もしかして、川村久吉さんのご子孫かご親戚でしょうか。昔は鍛冶屋さんだったのかもしれませんね。
ーーーーーーーー
さらに南下を続けますと、旧酒田町の標柱が自転車屋さんの脇にありました。ちなみに自転車屋さんは「サイクルショップ カワムラ」さんです。
また、川村さん!!。こちらも昔鍛冶屋さん!?
「旧酒田町
寛永六年(一六二九)に町割りされた町人の町で、旭川に舟がのぼったころはにぎやかな町であった。」
土崎湊の酒田町からの移住者が住んだ町だそうです。いまも、土崎には上酒田町、下酒田町がありますよね。
さらにさらに、土崎の上、下酒田町自体は山形の酒田からの移住者によって作られた町ということです。ということは、この町は山形の酒田の孫ですな。かつての日本海側の海運の盛んさが解りますね。
ーーーーーーーーーーー
南下を続けますと、とうとう馬口労町が見えてきました。
左右に交差している道が馬口労町の通りになります。羽州街道はここ秋田旭南郵便局を左折、東へ向かうことになります。
西に行くと、北国街道となるため、交通の要所ということですね。
馬口労町も住所としては、いまは旭南ですが、白くま父さんは旭南と言われてもピンとこないですね。
今も、ここは馬口労町と普通に呼ばれていると思いますよ。
秋田銀行の支店名は馬口労町支店となっており、しっかりと地名が残っております。
馬口労(ばくろう)は馬の売買を職業のことで、昔馬口労町には馬市があり、また伝馬といって馬を適切な頭数を各場所(駅はもともとこの場所の意味)に用意しておき、要はリレー(駅伝はこの意味からきた)のように馬を乗り継いで、通信(情報)、輸送(荷物)、移動(人)をさせる昔のシステムがあったんですが、この伝馬町の役目もしていたという、馬口労町はなかなか重要な町でした。
お菓子屋さんの老舗 博進堂さんです。あねっこ餅はTVCMで秋田県内なら有名ですね。秋田銀行さんの向かいにあります。
馬口労町には、このような古い建物が結構よく残っています。
また、毎年8月12日には草市が開催されると聞いたことが有ります。
勝平得之の版画で草市、盆市の様子が描かれておりますので、秋田県立近代美術館デジタルアーカイブにてご覧ください。
いいですねぇ。雰囲気ありますねー。
さあ、秋田旭南郵便局前を通過して、直進!!羽州街道を進みましょう。
一応に秋田旭南郵便局はここですよ。
刈穂橋を通って旭川を渡ります。
いまは、刈穂橋といいますが、江戸時代の文献にその名前はないので、明治以降の名称だそうです。
江戸時代は、馬口労町橋と言ったそうです。なんで、名前変えたのかな?
刈穂橋を渡ると右手に旭川の標柱があります。
そして、その旭川の標柱の向に、神社があります。
とくになんの表示もないのですが、グーグルマップではお不動様と表示されております。
お不動さんは、仏様だとおもいますが、まあ神仏習合ですかね。
神社の境内には、保存樹の銀杏の大木があります。早春なので葉っぱはないです。秋に来ると見事なんでしょうね。
羽州街道に戻ります。
刈穂橋バス停前を通過します。
バス停のちょっと先に旧「向馬口労町」標柱があります。
「旧向馬口労町
馬市の指定地であった馬口労町の東側に位置し刈穂橋(馬口労町橋)を渡った一部である。旭川の川船がにぎやかで、米蔵が建っていた。」
米俵を運ぶ川船、見てみたいですねえ。
ーーーーーーーー
さて、ここまでで外町を通過し終えました。
秋田県公文書館デジタルアーカイブに久保田城下外町の屋敷割・人名を記載した「外町屋敷間数絵図」寛文3年(1663年)がありましたので、リンクを埋め込みました。ごらんください。
うわー、細かい!!苗字が書いてないからわかりませんが、現在まで続いているお店のご先祖様たちも載っているに違いありません。
街角にある黒い点々は町門だそうで、夜になると門が閉まっていたそうです。さすが城下町です。
ーーーーーーーーーー
さて、どんどん東へ行きますと、刈穂橋東交差点へでますので、登町地下道を通って更に東進しましょう。
そうしますと、楢山登町に入ります。そしてT字路の突き当りに、與次郎稲荷神社が。。。。。。。あれ?ない!!ないよ??
いや、確かにここに神社あったんですよ。場所を間違ったかと思って小一時間この辺をくるくる探し回りましたがありません。
(道順も間違ったかと思って、ちょっと馬口労町まで戻ったりもしましたよ)
おかしいなと思って、二〇世紀ひみつ基地さんの記事をさがしましたら、8年前の2013年に写真の茶色の建物のところにあった與次郎稲荷神社は撤去されてしまったようです。
二〇世紀ひみつ基地さんの記事:ホントは怖い与次郎稲荷伝説・エリアなかいち
與次郎をご存じない方も、リンク先をご覧になられるとよろしいかと思います。初代久保田藩主佐竹義宣公に仕えた狐の飛脚が與次郎(与次郎)です。
あーあ、この場所重要なんですよ。だから目印にしてたのに。
だって、実は佐竹のお殿様の参勤交代の行列は、ここから羽州街道に入るんですよ!!
八橋一里塚からここまでは、白くま父さんの一人旅でした。その8にしてやっとお殿様参戦ですwすみません。
いつまでも、悔やんでいてもしょうがないので、佐竹のお殿様が久保田城(現千秋公園)からどのような道筋で、この楢山登町の元與次郎稲荷のある場所までいらっしゃるのか地図でみてみましょう。ルートは参考文献1を参考にしました。
まずは、もうおなじみ正保城絵図 出羽国秋田郡久保田城画図でルートを追ってみましょう。
(加工していない元の絵図を見たい方はこちら)
赤い線が久保田城から羽州街道までのルート
1,久保田城の「二の丸」をスタート地点として、
2、まず「上中城」へ出て南下し、
3、「追手門(上土橋門)」をから
4、「広小路」へ出て西へ進みます。
5、その後「中土橋」手前で南に曲がり、南に進み
6、「追手二の門(虎ノ口門)」を通過し、
7、その後「追手三の虎ノ口」から、楢山登町へでて元與次郎稲荷前(矢印先端)で、羽州街道に合流となります。
この道筋は、一部を除いてほとんど残っていますので、2021年現在の地図でも見てみましょう。
1,千秋公園の「二の丸」跡をスタート地点として、
2、まず「上中城」つまり現在の秋田県立脳血管センター前へ出て、大手門通りを南下し、
3、「追手門(上土橋門)」つまり現在の千秋公園ポケットパーク付近から
4、「広小路」へ出て西へ進みます。
5、その後「中土橋」手前、つまり千秋公園入口交差点で秋田市にぎわい交流館AUを右手に見ながら南に曲がり、中通を南に進み
6、「追手二の門(虎ノ口門)」つまり現在の東北森林管理局の敷地内を通過し、秋田南税務署の角を曲がって南に進み
7、その後「追手三の虎ノ口」つまり現在の中通看護学院のある辺りの小路から、楢山登町へでて元與次郎稲荷前(矢印先端)で、羽州街道に合流となります。(あれ?まだ與次郎稲荷が地図上にありますねぇ)
東北森林管理局の敷地内になってしまった道は消えてしまっていますが、それ以外は現在もたどることが出来ます。
今度、別の機会に実際に通ってブログにアップしたいと思っておりますよ。
よお、待たせたな。
あ、お殿様。わざわざすみません。雄勝峠、いや杉峠と言ったほうが解りますかね?杉峠まで、ご同行よろしくおねがいします。
お殿様って呼ばれてたかな?
お屋形様だったような。
まあ、いいか。
いいけどさ、ところで今回城から追手三の虎の口まで久しぶりに通ったけど、せっかく防御のために作った堀、結構埋めちゃってたけど、大丈夫なの?心配なんだけど。
大丈夫ですよ。久保田のお城は明治になるまで、一度も他国から攻められた事はなかったんですから。いまは太平の世ですし。
だったら良いんだけどさ、元藩主、元藩知事としては気になっちゃってね。
あれ?初代藩主様のお姿に見えますが、元藩知事ということは幕末の藩主様なのですか?
うーんと、その辺は適当に全部の代の藩主を兼ねちゃってる感じで頼むよ。
大体、「藩」っていう言葉も実際は当時は使ってなかったしね。
あ、「藩」は明治になってから使うようになったと聞いたことがありますね。
結構、きさくなお殿様でよかったなぁ
ということで、楢山登町の旧與次郎稲荷神社前で、佐竹のお殿様と合流したところで、今回は終わりにしたいと思います。
次回は、「牛島一里塚」跡到着となるか?
次回も、よろしくね!
その9につづく
前回その7はこちら
まとめページはこちら
ーーーーーーーーーー
白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
元與次郎稲荷神社跡を示す標柱か何かがあると、他の羽州街道をたどる方も迷わないかと思います。
関係者の方、おられましたらご検討をおねがいします!!
ーーーーーーーーーー
参考文献1:渡部景一「図説 久保田城下の歴史」無明舎出版 2009
ーーーーーーーーーー
初稿:2021-5-23
リンク切れ修正:2022-4-11
コメント