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どうもー、白くま父さんです。
牛島一里塚〜仁井田一里塚編は、今回で4回目になります。仁井田一里塚に今回たどり着きますよ!!たぶんw
牛島一里塚跡から仁井田一里塚までの経路は以下のとおりです。前回までで、仁井田の変則的な切上交差点まで歩きました。
羽州街道がここで急激に曲がることから、勝手に白くま父さんが「切上カーブ」とよんでいるところです。
ここ切上カーブから、今回は開始です。
なぜ、ここで急激に羽州街道がカーブするのか?
それは、この先真っすぐ行ったら昔は雄物川が流れていたからです。
ここで、国土地理院で治水地形分類図を公開しておりますので、見てみましょう(元の図を見たいかたは、国土地理院のHPをどうぞ)
記憶力のいい方は、覚えておいででしょう。そう、その2で出てきた仁井田地区の治水分類図ですね。
こんなふうに、切上でカーブしないと、雄物川にぶつかってしまします。
よって、切上で羽州街道は強制的にカーブさせられた、カーブせざる負えなかったわけです。
黄色の部分は、自然堤防ですので、切上でカーブした羽州街道は、旧雄物川の流路で形成された自然堤防上をを進むことになります。
羽州街道のある自然堤防が、旧雄物川流路をすすむ川船から見ると、切り立って見えたから「切上」という地名になったと考えるのはいかがでしょうかね?白くま父さんの勝手な仮説ですがね。
そういえば、旧雄物川流路沿いにあったと予想された
「目長田港」ってわかった?
いまのところ手がかりはないですねー
秋田市史や仁井田村史や河辺町史等々だいぶ読み漁ったのですがねえ。
切上交差点を真っすぐ行ったら形跡があるかと思ったんですが、なかったですねー。
仁井田地区コミュニティセンターが、昔の仁井田村役場跡で、
おそらく江戸時代の仁井田村の伝馬駅跡と予想されますので、
もしかすると、さらに昔は川港だったかもしれませんね。
仁井田地区コミュニティセンター、ちょっと行ってみようね
それでは、まずは羽州街道を切上カーブしますか!!カーブ!!
切上カーブを左折すると、ひたすら真直ぐな羽州街道が続きます。
100mほど羽州街道を直進すると、こちらのT字路があります。
羽州街道はもちろんこのまま直進ですが、右折しますと仁井田地区コミュニティーセンターがありますので、ちよっと寄り道してみましょう。
右折して、100mほど進みますと仁井田地区コミニュティーセンターがあります。
最近、新しく立て直したようで、随分新しいです。
傍らに「仁井田村道路元標」が残っておりました。
これは、八橋一里塚〜牛島一里塚編 その6で赤れんが郷土館の前にあった「秋田県里程元標跡」の仁井田村版ですね。
その昔(明治維新後、戦前)仁井田村の村道はここを起点に設定されたわけです。
仁井田村は昭和29年(1954年)10月1日に秋田市に合併しており、その2年前の昭和27年に現道路法が施行されていますので、その際この「仁井田村道路元標」は無効となっておりますが、仁井田地区の方達は見事に保存されております。良いことです。
昭和十五年(1940年)からここにあるんですね。この気分で、江戸時代の一里塚も残してくれたら良かったのにぃ!!なんてね。
車避けのロープの巻き付けにしないでくださいよw
仁井田地区コミュニティーセンターの花壇には秋田蕗が植わっているのですが、訪れた6月12日(3月27日の旅で行き忘れたので再訪)にはちょうど刈り取ってあり、欲しい方は自由に持っていって良いとのことでした。太っ腹!!
蕗は丈夫で直ぐ生えてきますから、みごとな秋田蕗を観たい方は仁井田地区コミュニティーセンターに行ってみてくださいね。
道路元標が残っていましたが、やっぱり目長田港の手がかりはないですねー
引き続き調査だね
さて、羽州街道に戻って旅を続けましょう。
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仁井田地区コミュニティーセンターに至るT字路から50mくらい羽州街道を進むと、このT字路にきます。
ここには、大正元年(1912)に元号を明治から大正へ改元したことを記念して建てた「紀念之碑」があります。
記念じゃなくて、紀念と書いてあるところに昔を感じますねぇ。同じ意味だそうですよ。
このT字路の入り口の両脇になんか柱が建ってるんですよね。意味有りげなんでちょっと考えて、ひらめきました。
これ神社の幟を立てる柱ですよね!!よーし、行ってみよう!!
ひっそりと仁井田神明社がありました。
馬頭観音があります。萬延二年(1862年)ですね。これくらいだとまだ新しいなあと思えるようになってきましたw
結構この神社奥行きあるのかなと思って入っていくと!!ニホンカモシカ様がおられます!!
カモシカ様に導かれるように進むと、ドーンと大きな御社が!!
仁井田神明社は、小さな神社だと思っていたらなんと立派な神社ではないですか!!
しかも、お使いはカモシカ様ですか!?
カモシカ様、この御社を見ろというのですね?
仁井田神明社、村社にしてはなんと立派な大きな神社ではありませんか。
秋田県神社庁のページに仁井田神明社の由来が記載されておりましたので、引用します。
「当社は元和2年4月8日仁井田開発の為、佐竹家老梅津半右衛門憲忠開拓の神誓成就の礼として羽黒山湯殿山を勧請し、当地に一宇を建て湯殿山別当注蓮寺より舘岡満正を招聘して別当とし、当村の祈願所とする。」
仁井田を新田開発するときに、湯殿山から勧請して仁井田神明社としたんですね。この辺に羽黒山湯殿山の参拝講の記念碑が沢山あるのはそういうことなんですね。
このお社には写真に撮るのを忘れてしまいましたが、素晴らしい彫刻ありましたので、是非現地に行って観てください。
(後で撮ってきますね)
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2021-7-25 追加
2021年7月24日に、仁井田一里塚跡地の写真を取りに行くついでに、仁井田神明社によって彫刻の写真を撮ってきました。原野を開梱する人の様子が彫られております。一見の価値ありますよ。
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仁井田堰の由来を書いた看板がありました。
看板の内容を書き出しと以下のようでした。
「 仁井田堰
仁井田堰は、古く元和二年(一六二六)を起源とする。この年佐竹藩の重臣梅津半右エ
門憲忠が、仁井田原野の開墾に着手するとともに水路の開鑿を始めたことによる。
憲忠が業半ばで死(一六三〇)したため、二代忠国は、父の遺志を守って尽力した。然
し資金に乏しく、専らその調達と蓄積に腐心した。忠国病没(一六五七)後の万治三年
(一六六〇)三代利忠が父祖の遺業を継ぎ、全能力を傾注して開鑿を遂行した。また、岩見
川戸島舘下に水源を求め、堰堤の築造をも施行した。しかし、生来の足疾には勝てず閑職
に退き、その後を弟の四代忠宴に託した。
かくして寛文二年(一六六二)梅津家四代と幾多の人々の艱難辛苦により、仁井田堰は
遂に完成した。以来、広大な農地を灌漑しながら、地域の環境と住民の心に、潤いや安ら
ぎを与え続けているのである。」
こちらのページに、仁井田堰についてとても詳しく描かれておりますので、是非参考にしてください。
このリンク先によると、三代憲忠は、豊岩村小山から大野村まで雄物川を真っ直ぐに流れるように改修する治水工事を、わずか3年足らずで完成させた後、仁井田堰を開鑿する事業を始めたそうです。
梅津四代、がんばったなあ(T_T)
あっぱれじゃ。
白くま父さん
仁井田堰は最大で1300ha、つまり13km2もの面積を灌漑していたそうです。
東京ドームが46,755m2なので、東京ドーム278個分の面積となります!!
13,000,000÷46,755≒278個
すげー、すげーよ、梅津さん、仁井田堰!!
仁井田神明社には、数多くの石碑があります。仁井田地区の心の拠り所なのでしょう。
左から、太平山参拝講、明治天皇崩御紀念、七庚申塚、出羽三山(羽黒山、湯殿山、月山)参拝講、七庚申塚。
この七庚申塚は、なんと昭和63年(1988年)に建立です。次の年は平成元年で、白くま父さんが中学三年のころです。
つい最近まで庚申講が行われていたんですね!!いまも行われているのでしょうか?
巨大な太平山参拝講記念と庚申塚群、仁井田堰開鑿記念碑。
そして、お動の側でこちらの様子を見るカモシカ様w
忠魂碑 戦前の雰囲気ですねぇ。手前の石は砲弾を模ってますね。
そして、松の木の下で涼むカモシカ様w
仁井田堰竣工記念碑
耕作地整理工事の記念碑
昔から現在に至るまで、仁井田堰、水田は改修を続けてきたんですね。
そして帰ってゆくカモシカ様。
カモシカ様、ご苦労さまです!!
本当に人懐っこいニホンカモシカだったね
あと、1頭カモシカはやく見ないと!!
秋田大学にはその昔、カモシカを奇数頭みると留年、偶数等なら進級できるというジンクスというか伝説があったのです!!
あと一頭、何処かに居ないかな??
そして、羽州街道とは反対方向、つまり旧雄物川流路の古川の方向に立派な鳥居があり、こちらが正式な入り口だとなっております。
つまり、仁井田のかつての中心部はこちらの方向ということだから、やっぱり目長田港はこの辺にありそうな気がする
そして、菅江真澄の標柱がありました。文化一二年(1815)仁井田村来訪とあります。
おそらくその2で紹介した「菅江真澄遊覧記 勝地臨毫 出羽国秋田郡5」の頃だと思いますよ。
では、羽州街道に戻ります。
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仁井田神明社に曲がるT字路から50mくらい進むと、お地蔵様のお堂があります。
綺麗にされており、仁井田地区の方の心の優しさが解りますね。
どんどん羽州街道をすすみますと、やがて右側の地区の地名が仁井田目長田になります。左側は仁井田本町です。
藤原缶詰加工所さんの前を通過します。秋田県では自分で採取した山菜や野菜を缶詰工場に持ち込んで缶詰にすることが結構普通です。
なので、町に個人を相手にしてくれる缶詰工場があるんですよ。
秋田県あるあるですかね。激安自販機も良いですねー
たけのこ(ネマガリダケ)とかナメコ、里芋とか缶詰にするよね。
さらにどんどん羽州街道を直進しますと、カッコいい松の木と庚申塚が見えてきます。
この松の木と庚申塚は街の景観にマッチしてますね。いいですねー
そして、さらに50mほど進みますと、畑の中に水準点がありました。ここによると、海抜7.3mとのことです。
雄物川河口に近いだけに、結構低いですね。
そして、道の舗装が砂利道になった辺りで今回の旅は終わりとなります。
ということは、ここが仁井田一里塚なの?
特に目印がなくてピンとこないのですが、
参考文献1に載っている写真とほぼ同じカットで写してみました。
この写真の中央部が仁井田一里塚のようです。
よくわからないね
なので、また秋田市役所に行って公図を見てきました。
次の仁井田一里塚〜御所野一里塚編で紹介いたしましょう!!
ということで、次回もよろしくね。
乞うご期待!!
今回の「秋田県南部羽州街道歩き旅 牛島一里塚〜仁井田一里塚編」は、その4で終了です。
次回の「秋田県南部羽州街道歩き旅 仁井田一里塚〜御所野一里塚編」その1にご期待下さい!
久保田城から楢山登町までの参勤交代の順路も取材してきたので
気分しだいで先にこちらをやるかもw
「秋田県南部羽州街道歩き旅 仁井田一里塚〜御所野一里塚編」その1 はこちら
前回その3はこちら
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
目長田港について知っている方、情報・コメントよろしくお願いしまーす
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参考文献1:佐藤晃之輔「秋田・羽州街道の一里塚」秋田文化出版 2013
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初稿:2021-7-11
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