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前回、石川一里塚〜船沢一里塚編のその1はこちら
どうもー、白くま父さんです。
石川一里塚〜船沢一里塚編に入って、今回は第2回目になります。
石川一里塚跡から船沢一里塚までの経路は以下のとおりです。
黄緑色の部分が、前回まで歩いた経路となります。前回までで、昔「一の渡」と「坂本の渡し場」とよばれた岩見川の渡し場跡である和田大橋まで歩きましたので、そこからスタートです。
こちら和田大橋ですね。江戸時代にはこちらの橋は架かっておりませんで、舟で渡っておりました。
渡し場と思われる場所に行ってみましょう。
和田大橋の左側に岩見川の川岸に降りていく道が有ります。
この辺りがおそらくかつての「坂本の渡し場」「一の渡」と呼ばれた岩見川の渡し場跡と思われます。
私たちの旅では3回目の岩見川の渡河となりますね。
一回目:河辺豊成の「三ノ渡」(豊成橋付近)御所野一里塚〜川原田一里塚編 その6 参照
二回目:河辺戸島の「二ノ渡」「中渡」(戸島大橋付近) 同上 その7(完) 参照
三回目:河辺和田坂本「一の渡」「坂本の渡し場」(和田大橋付近) 今回!!
ちょうど、わしらは各渡し場の番号を逆順に進んでいるな
江戸時代の「坂本の渡し場」「一の渡」の様子が解る資料があります。
それは、秋田県立博物館所蔵の「足栗毛」という資料です。
この資料はどうやら、弥次喜多道中で有名なで十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にあやかって付けた題名のようで、刈和野〜土崎までの羽州街道沿いの風景二十箇所を描いたものだそうです。
秋田県立博物館研究報告というものが、Web上でPDFで読めるのですが、その第31号(2006年)でこの「足栗毛」が紹介されておりました。これです。
作者不明ですが江戸時代の羽州街道沿いの風景がよく解る資料だと思います。
4ページ目に
「9 石川の渡し 石川渡場之図
ゆく水ハ 矢をいる如く 石川の いわおもとふし くわの弓こそ」
という説明ともに江戸時代の一の渡の風景画が紹介されております。
「石川の渡し」とも呼ばれていたんですね。結構名前が揺らぎますなw
風景画から川の両端に渡した綱を利用して舟で渡る方式であることが解りますね。(こちらのサイトに昔、橋の無い川をどうやって渡ったかを解説したページがありますので、参考にしてください)。
余程急な流れだったようで、「ゆく水ハ 矢をいる如く」とはよく言ったものです。「いわおもとふし」は「岩をも通し」ということでしょうかね。「くわの弓」がチョットわからないけど、ググりますと桑弧蓬矢(そうこほうし)という熟語にたどり着きます。男子が志を立てることの意味があるそうで、なんでも古代中国では男の子が産まれると、桑の木でつくった弓で蓬(よもぎ)の茎で作った矢を天地四方に射て、将来雄飛するのを祝い願ったという故事があるそうです。
つまり、おそらく志を立てて急な岩見川の流れにもめげずを渡って旅をする男の人のことを詠んだ川柳なのでしょうね。いいですねー
この風景画がカラーで見られないのが残念です。
秋田県立博物館さん、是非ともデジタルアーカイブで「足栗毛」の公開をおねがいしまーす、カラーで。
さて、現代は渡し舟はありませんので恒例のワープをするしかありません。
赤の破線のように進みたいのですが、もちろん渡し舟はありませんので、黄緑色の線のように和田大橋を渡って進みます。ワープです!!
ーーーーワープここから
まずは、和田大橋まで戻ってきますよ。昭和三十六(1961)年十一月竣工なんですね。六十年ものですな。なかなか年季入ってます。
これが現在の岩見川の流れです。矢を射るようには急ではなく、むしろ悠々と流れております。
このほうが舟で渡りやすいかも知れませんね。
和田大橋を渡ると松沢商店さんがあります。
昔、白くま父さんが小学生くらいの時は、コンビニがありませんでしたので、秋田市から大曲にお墓参りに行く時、かならずこちらのお店に寄ってジュースやお菓子を買って貰っておりましたね。キリンレモンやコカ・コーラ等の炭酸飲料を飲んでゲップをして、鼻がツーンとした覚えがあるなあw
そして、その松沢商店さんのこのすぐ横から、舗装されていない手作り風の階段?がありますので降りていきます。
階段をおりますとコンテナみたいなものが土手にありますので、その脇に行ってみましょう。
そこでワープが終わります。
ーーーーワープここまで
多分、この辺りが坂本の渡し場跡ですね。おそらく、向こう岸のくぼんだ部分あたりから、こちら岸のこの木の辺りまで渡ってきたのだと思います。この場に立つと、足栗毛の構図にそっくりなのがわかりますよ。ぜひ来てみてくださいな。
ということで、坂本の渡し場、一の渡を渡りました。これで岩見川を渡るのは終わりです。かつては3重に街道を遮り久保田城下を守った岩見川も今では悠々と流れておりますな。有事には、渡し船用の綱を切って戦いに備えたそうですから、渡し場も重要な防衛線なんですよ。
坂本の渡し場跡から、参考文献1、2は青線のように進んでいくか、もしくは現国道13号線をすすんで行くのですが、我らがヒーロー、三國志の黄忠・厳顔将軍の如く老いて益々盛んな老人の星、伊能忠敬様の測量地図では黃緑色のように進んでいるようですので、白くま父さんは江戸時代の資料にしたがって、黃緑色のように進みますぞ。
ね!、渡河したあと岩見川沿いに南下してるでしょ。
これを2021年4月に歩いた後で気づいたんで、2021年12月に歩き直したんですよー
雪が降るまえに間に合いましたよ。大変大変。
うそつけ!!新たな発見に大喜びで歩き直してくせにw
はい、ということで坂本の渡し場跡から、羽州街道を南進いたします。
和田大橋の下をくぐります。鉄骨(多分H型鋼)には「1970年10月 東北地方建設局建造」とありますね。
あれ?和田大橋の欄干には昭和三十六(1961)年十一月竣工って書いてあったのに?
たぶん和田大橋は改修・補強されているようですな。
こちらは並走するJR奥羽本線の岩見川橋梁のプレートです。
昭和49(1974)年8月28日竣工と書いてありますから、こちらのほうがちょっと新しいですが、1970年代初頭に和田大橋周辺で鉄道と国道の大幅な改修工事が集中してあったと考えて良いでしょうね。
和田大橋の下をくぐって、ずんずん進んでいきます。右手の土手の向こうは岩見川が流れております。
突き当りの近くの右手に鳥居が見えてきました。その前に気になったので白い小屋のような建物をのぞきますと、
お地蔵様が多く安置され、大事に祀られておりました。
あー、ここは宮崎集落の入口ですな。道祖神や庚申塚、お地蔵さんは昔集落の出入り口に置かれたのはもうお馴染みですね。
鳥居に併設されているのは宮崎町内会会館でした。神社の名前はチョットわかりませんでしたが、郷社というか村社というか、この地域の鎮守の神様なんでしょうね。昔は神社に集まって村のことを相談したでしょうから、そのまま町内会会館になるのも自然な流れでしょう。
宮崎町内会会館のあたりで、街道は左折し南西に進みます。松の庭木がカッコいいですな。
そして進みますと、写真では判り難いですが右側から道が合流してきて、この辺りで街道は微妙に曲がってほぼ西に進路をとります。
やがて、街道は田んぼの中の道となります。そしてここを真直ぐ進んで奥羽本線にぶつかります。
奥羽本線によって街道は遮断されておりますので、恒例も恒例のワープをします。
赤の破線のように進みたいのですが、奥羽本線で遮られておりますので、黄緑色の線のように回り道をしてすすみます。ワープです!!
ほとんど進んで来た道、戻ってるじゃない!!
ははは、そうなんです。
なので、戻るのが嫌な方は参考文献1、2と同じように、
始めから和田大橋を渡ったら国道13号線を進みましょう。
でも、正確に街道をたどりたい一部の人は、
きっと行き止まりでも見学にくるよなーw
ちなみに、地形図では国道13号線に国道46号線のマーク(通称おにぎり)が書いてありますが、山王の臨界十字路から協和の上淀川交差点まで、両国道は重複しておりますので間違いではありませんよ。
昔は茨島交差点までだったんですけどねー、2004年に臨界十字路に変わってますね!!国道7号線の秋田南バイパスが2003年に臨界十字路に接続されたせいですな。
ーーーーワープここから
ずずずぃっと、来た道をもどりまして和田大橋まで戻ります。奥羽本線の橋梁だけくぐりまして、和田大橋はくぐらず、西側右手にあります階段をトントントンと登りますと、
国道13号線を挟んで松沢商店の向かいにヒョイとでます。
そしてそのまま国道13号線を南西に進みます。
やがて国道13号線は左に大きなカーブを描き始めますが、そちらではなくこの右手の白い柵が終わる地点に注目!!そこでストップです。ワープ終わりますから。
ーーーーワープ終わり
はい、ワープが終わってたどり着きました、ここ。この写真は和田大橋の側に振り返っておりますので、左前方の柵が先程の白い柵です。この柵の前の道路脇の空間、あやしいでしょ?舗装されているんですよ。不思議なことに!!
この空間から、ちょいっと線路脇に進めますので、線路の向こうを見てみますと写真が下手で判り難いかも知れませんが、田んぼの中の羽州街道がこの空間めがけて進んできているのが判ります。
写真下手だなw
白くま父さんは、これでも身長180cm弱あるんですよ。
これでも映らないんだから脚立が要りますよ(泣)
自撮り棒があればよかったかなぁ?
もしかすると、昔はここに踏切があったかも知れませんね。だれかご存知の方、居られましたらおしえてください。
とにかく、ここで羽州街道は現国道13号線に合流します。
国道13号線を進んでいきます。
ちょいと写真は国道13号の左側に渡っておりますが、国道の右側に分岐があります。この分岐側に参考文献1、2は進んでおります。私も4月の時点ではこの分岐側が羽州街道と思って進んでおりましたが、伊能忠敬様はこのまま現国道13号側を進んでいるんですよ。面白いですねー
今回はこの辺で終わりにしたいと思います。次回はこの分岐の辺りから旅を再会しますね。
次回で、目的地の船沢一里塚に着くと思うぞ!!
その3につづく。
前回 その1 は、こちら
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
河辺宮崎の田んぼの道から奥羽本線をわたる踏切が有ったかどうか、ご存知の方は教えてください。
また、秋田県立博物館さん、是非ともデジタルアーカイブで「足栗毛」の公開をおねがいしまーす。カラーで!!
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参考文献1:秋田県教育委員会「歴史の道調査報告VIII 南部羽州街道」1986
参考文献2:藤原優太郎「羽州街道をゆく」無明舎出版 2002
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初稿:2022-1-16
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