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どうもー、白くま父さんです。
秋田県南部羽州街道歩き旅、はやくも3回目です。
八橋一里塚跡から牛島一里塚までの経路は以下のとおりです。前回、六道の辻まで行きました。
黄緑色が前回まで歩いたルート
今回は、六道の辻周辺をちょっと寄り道してから、通町へ向かいます。
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まずはお寺を1件見学です。こちら。
聲体寺さんです。「聲」は「声」の旧字ですね。
こちらには、台座が亀の形をした石碑(亀趺碑)があります。どうやら、亀趺碑は秋田では他には無く、ここだけだ言う噂です。
「秋田市指定文化財(歴史資料) 聲体寺亀趺碑」
「亀趺碑は、大名や寺社の業績を称えるものが多いのに対し、聲体寺亀趺碑は飢餓の際に食料調達に努めた秋田藩家老小野岡義音の顕彰と、天保飢饉による犠牲者の供養が特徴である。嘉永二年(一八四九)に、義音の家中であった梶山音信が建立した。平成二五年(二〇一三)三月二十七日指定」
亀趺碑に関しては、Wikipediaを見てもそのものズバリのことは書いてないのですが、いろんな記述をかき集めますと、この亀さん、古代中国では贔屓という神獣だそうです。えこひいきの贔屓の語源だそうですよ。
この亀さん(亀じゃなく神獣なんですが)、重いものを甲羅に載せることが大好きだそうで、それじゃあということで古代中国では石碑を亀の台座にのせた亀鉄碑が多かったそうです。
で、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」というのは、石碑の台座である贔屓を引っ張ると石碑が倒れるからなんだそうです。なるほどねえ。
普通はお殿様やお寺を称えることが多い亀趺碑ですが、天保飢饉の際の食料調達に努めたご家老様を称え、犠牲者を供養しているところが他には無く珍しいのですねぇ。ご家老の家来が建立したのですから、余程良いご家老様だったに違いありません。
ちなみに、秋田県内の天保飢餓のすさまじさは、こちらのリンク先に記載があります。一部引用させていただきます。
「天保年間(1830-44)に入っても、3年、4年、5年、6年、7年と5年連続の凶作。中でも天保4年が大凶作で、巳年であったことから、秋田では「巳年のけかち」と称されている。」
「天保4年、秋田藩の人口はおよそ40万人、うち死者が10万人出たとの説もある。」
「幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は修羅道と言える。かわいそうにと幼児の手に食物を握らせると、その親が奪い取って自分で食べてしまう。全く親子兄弟の情もなく、畜生道という有り様だ。」
「通町橋から6丁目橋の下まで、橋の下は集まった浮浪者で一杯となった。死人をムシロに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどり着いた親など様々であった。通町橋など午前10時ころになると、200人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった」
恐ろしい。。。現在の飽食の時代の幸せを精一杯感謝しましょう!!
漢文で刻まれてますので、なんとなく解りますが、専門の方、得意な方、読み下し文と現代語訳をお願いします。
折角の亀趺碑ですが、割れた跡?倒れた跡が有ったり、亀の頭が無いです。やっぱり、明治初期の廃仏毀釈でやられたんですかねぇ?
さて、寺町を形成しているお寺は、もっともっと沢山あるのですが、今回は聲体寺さんだけで勘弁してください。今度、寺町の寺をめぐる散歩企画もやろうかと思いますので。
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さてもう1件はこちら。さくっと。
聖園学園短期大学さんですね。通称「みそたん」。女子短大です。聲体寺さんの道路向かいに、キリスト教系の短大です。寺町を構成する一員として、西洋寺も久保田城の防衛もかっているのでしょうか?なーんちゃって。
勝平得之の版画に「聖園」がありますので見てみましょう。下記は秋田県立近代美術館デジタルアーカイブより(2021-5-23 追記)
おお、まさにこの写真の角度ですかねぇ?昔からこの建物なんですね。いい感じです。
さて、六道の辻に戻って、羽州街道をたどって通町にいきましょう。
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また、案内板ありますね。この特徴的な絵、秋田市出身の漫画家倉田よしみさんの絵ですね。倉田よしみさんは漫画味いちもんめが有名だと思います。味いちもんめは元SMAPの中居 正広さん主演(確か初主演)でドラマ化もされました。倉田さんが描かれた秋田市建都400年記念漫画 青山くんの夏休みは、佐竹氏が秋田に国替えをした頃のお話がよく描かれております。もちろん、白くま父さんは所持しておりますよ。秋田県立図書館や明徳館で読めますので、ぜひ読んでみてください。まだ、書店で手に入るかはわかりません。。。アマゾンで今のところ古本が200円くらいでありますね。
ふと、足元を観るとマンホールがありました。
秋田市のマンホールは、矢留の市章に秋田蕗のデザインですね。
東に進みます。
この辺は、囲碁とか将棋が盛んなんですかね?いいですねえ。
どんどん、東へ進みます。
旧大工町の標柱がありました。
「通町から六道の辻(現在の鉄砲町と通町の間の十字路)に至る町で、初めは番匠町と呼ばれていた。町名は大工の住む職人町であったことに由来する」
だそうです。番匠は大工の古い呼び方ですよね。
ちなみに六道の辻あたりの町は、新大工町と言ったそうですよ。その標柱は見当たらなかったなぁ?見逃したか?
東へ進みます。
菊谷小路交差点まで来ました。左側の通りが菊谷小路と呼ばれています。
そのように呼ばれるかと言うと、昔、菊屋さんという造り酒屋さんが有ったからだそうです。
くわしくは、こちら 川端たぬきさんの二〇世紀ひみつ基地 「菊谷小路という不可解」をご覧ください。
おっと、検索していたら移転された元菊屋さんのブログを見つけました。秋田の小さな酒屋駄記 現在は「SakeLandあかい」として泉で営業されているそうです。歴史は続いておりますね。
勝平得之の版画「雪の街」に描かれている酒屋さんが菊屋さんだそうですよ。下記は秋田県立近代美術館デジタルアーカイブより。
馬橇がいい雰囲気をだしていますねぇ。版画になるお店なんてすごいです。(2021-5-23追記)
さらに東へ進みます。
通町二区バス停前まで来ました。
道路向かいには、旧中通町の標柱があります。
こちらは、仕出しのせきやさんの前となってます。
地元のスーパーマーケットなのですが、仕出しもやられているし、貝の沢温泉という温泉旅館も経営されており、とてもお惣菜が美味しいお店です。とても活気のあるお店です。秋田市に帰省すると必ずこちらで食料を調達します。貝の沢温泉いってみたい!!今度行きます。せきやさんのホームページはこちら。
白くま父さんは枝豆が好きで、自分の畑で採りたてを即茹でたものが甘み旨味が高く最高の味の枝豆だと思っておりました。売っている枝豆は何処のものも輸送中に甘み旨味が落ちて、食卓に出るときは美味しくなくなっております。でも、このせきやさんで買った枝豆は、畑で採りたての味がしました!!夏の旬にせきやさんの枝豆(茹でてあるもの)、おすすめです。美味しすぎます!!今まで唯一美味しいと思いました!!
さて、せきやさん、毎年土用の丑の日蒲焼の販売は行列ができるほどで、2日間で3トン売り上げるそうです。二〇世紀ひみつ基地さん参照
この鰻を供養するために敷地内に鰻塚がありますので、写真に収めようと近づきます。。。。
あれ?なんか標柱が倒れてる?
うーんと、これは文字を起こすとこう書いてありました。
「菅江真澄の道 通町年の市」「享和元年(1801)十二月久保田城下に入り、年の市を見物する。」
おい!!菅江真澄の標柱が根本が腐って折れて倒れちゃってるじゃないの!!
今年の大雪に耐えられなかったのかな?
あまりに気が動転して、せきやさんの鰻塚は、写真を取るのを忘れちゃいました。
しょうがないので鰻塚の写真・記事は、またまた、二〇世紀ひみつ基地さん参照(すみません)。
今回は、せきやさんにたどり着いたところで、終わりにします。
次回はもうちょっと通町をみてから、大町に行きますよ。
その4につづく(なかなか進まないな!!もう、実際の旅は大仙市に入ってるのに!!)
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
せきやさんの鰻塚にたおれている「菅江真澄の道」の標柱、新しいのを建ててください。
今度は腐らないように、木なら一度表面を焼いて炭化させたものか、ステンレス製の標柱にするか、石柱で再建をされたほうが良いでしょう。
関係者の方、秋田市さんか秋田県さんかな?ご覧になられましたらご対応よろしくお願いいたしまーす。
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初稿:2021-4-23
秋田県立近代美術館デジタルアーカイブの勝平得之作品へリンク :2021-5-23
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