まとめページはこちら
前回、久保田城〜楢山登町編 その1はこちら
どうもー、白くま父さんです。
久保田城〜楢山登町編に入って、今回で第2回目になります。
久保田城跡の千秋公園から楢山登町までの経路は以下のとおりです。
黄緑色の部分が、前回まで歩いた経路となります。前回、二の丸から黒門跡通過し追手門跡(現:千秋公園ポケットパーク)まで歩きましたので、そこからスタートです。
前回のゴール地点である大手門跡の標柱です。千秋公園ポケットパーク内にあります。
ここからお掘りを眺めながら広小路を西に進みますよ。
きれいにツツジが咲いておりますな。
そして、道路の向かい側にはアトリオンがあります。
近くて高い建物だから写真が撮り難かったなー。
1Fに献血ルームがあるので、たまに行きます。
最近は2022年2月13日に行ってきましたよ。
はい、そしてアトリオンの隣には、ドーミーイン秋田が建っております。
ここにはかつてマルサンというショッピングセンターというかスーパーと言ったほうが良いのか分かりませんが、お手頃価格で日用品や食品を販売するお店がありました。
くわしくは、毎度おなじみ二〇世紀ひみつ基地さんの中の記事「マルサン・レクイエム」をご覧ください。
中高生の頃、
屋上階のゲームセンターや食堂によく行ったなあ
なつかしー
そして、お掘りの向こう側にあるのは、国学館高校ですな。
白くま父さんの中学の同級生は調理科に入学してましたね。
寿司職人になるって言ってたけど、なれたのかな?
そして、中土橋の向こう側で建設工事をしているのは、秋田芸術劇場「ミルハス」です。以前は「県民会館」でした。
ーーーーーーーーー
ちなみに、2022-4-16 ミルハスの工事はほぼ終わっておりました。
オープンは、2022年9月23日です。
ーーーーーーーーー
国学館高校やミルハスがある辺は、昔は「下中城」と呼ばれておりました。
秋田県公文書館デジタルアーカイブ御城下絵図で下中城を見ますと、国学館高校・秋田市中央図書館明徳館や秋田市文化創造館の辺りは、梅津氏の屋敷がありました。そして、ミルハスのある辺りは、渋江氏の屋敷がありました。
梅津氏は家老を多く出した家系で、仁井田を開発したことでも有名な梅津半右エ門憲忠に始まる家系です。久保田藩初期の様子が判る貴重な史料である「梅津政景日記」を書いた梅津政景は、半右エ門の弟で、政景も家老を務めました。
仁井田の開発については牛島一里塚〜仁井田一里塚編 その4でも取り上げているのでよかったら見てくださいな。
そして、渋江家も多くの家老を出した家系であり、初代の渋江内膳政光はもちろん家老で、久保田城築城の縄張り、つまり簡単に言うと城構えの設計を担当したことでも有名です。
梅津兄弟もそうですが、渋江政光は佐竹義宣公が召し抱えた新参者の家来だったものですから、古くからの譜代の家臣から疎まれて、大変だったようです。秋田への転封から、久保田城築城のの渋江内膳の苦労の物語を、あの「寄生獣」で有名な漫画家「岩明均」さんが「雪の峠・剣の舞」という歴史漫画に描いておりますので、興味がある方はぜひご覧ください。
雪の峠・剣の舞
白くま父さんはもちろん所持しております!!
2001年に発売の本だから手に入れるのは難しいかもしれんが、
秋田県立図書館を初め県内の図書館で閲覧できるので、
是非読んでみてくれ!!
江戸時代初期の久保田藩の物語、熱いぞー
黄緑色が今まで歩いてきた経路です。今回は追手門から西にお堀沿いの広小路を歩いて中土橋の寸前まで来ました。中土橋まで行かずに、直前で南に曲がります。
はい、ここ。千秋公園入口交差点で、広小路を渡って南に向かいますよ。
右手にエリアなかいちを見ながら進みます、と行きたいところですが、ちょっとなかいちの正面に寄り道をしましょう。
エリアなかいち前の正面には与次郎の石像があります。
あの、與次郎稲荷の与次郎ですよ!!
与次郎についての説明書きがあるので書き出してみましょう。
『秋田〜江戸を6日で往復した俊足の飛脚!
エリアなかいちのマスコットキャラクター「与次郎」くん。
彼にはこんな伝説が残っています。
常陸(現在の茨城県)から秋田に国替えになり、現在の千秋公園に久保田城を
築いた初代秋田藩主・佐竹義宣公の前に、一匹の白い狐が現れました。
「私は、この山に住む狐です。このたびの築城で住む場所がなくなり、みんな
困っております。どうか私たちに住む場所を与えてください。そうすれば、必ず殿の
お役に立ちます」と願い出ました。
狐をかわいそうに思った義宣公は、狐に茶園近くの場所を与え、「茶園守の
与次郎」と呼びました。与次郎狐は、約束どおり、義宣公のため飛脚に身を変えて
秋田〜江戸をわずか6日で往復し、貴重な手紙を運んで大いに働きました。
しかし、与次郎の活躍を妬んだ飛脚たちの恨みをかい、羽州街道の六田村
(現在の山形県東根市)で罠にかかり殺されてしまいました。与次郎の無念の死を
哀れみ、義宣公がその霊を祭ったのが、今も千秋
公園本丸にある『与次郎稲荷神社』です。
殿様の寛大な心と与次郎の感謝の心には、
ほのぼのとさせられますね。
俊足の与次郎にあやかって、かつて城下町で
あった中心市街を舞台に「与次郎駅伝」が開催
されています。「足が丈夫に速くなりますように・・・」
「感謝の心が育ちますように・・・」与次郎にお願い
してみましょう。』
与次郎は殺されているし、さらに六田村の人達は、与次郎の霊にに呪い殺されたという伝説があったそうなので、「ほのぼのとさせられますね」はどうなんだろ?
あ、久保田城内にある與次郎稲荷神社を取材してくるのわすれたw
今度、追加しておきますね。
それでは、与次郎の石像に別れを告げて、なかいちを右手に、南下しますよ。
左手に秋田明徳館高校が見えてきます。白くま父さんが高校生の頃は、たしか秋田東高校という定時制の高校でした。
でも、当時の秋田東高校の校舎は、いまのあきた文学資料館(秋田県立図書館の分館)の場所にあったのでここは新しい校舎だよ。
そして、明徳館高校のちょうど向かいのエリアなかいち側に、久保田藩黌(校)明徳館址と明治天皇聖蹟の石碑があります。説明書きがあるので書き出してみましょう。
明治天皇聖蹟
「 明治十四年(一八八一)、明治天皇による二回目の東北・北海道巡幸
が行われた。このとき初めて明治天皇は県内を巡り、九月十五日から十
八日にかけて旧秋田町(現、中通・千秋・楢山・大町など)に滞在した。
九月十七日には、行政や教育・産業などの中心施設として、土手長町
中丁(現、中通一丁目一、二)の秋田県庁や西根小屋町(現、中通三丁目
四)の秋田女子師範学校、東根小屋町(現、中通三丁目四)の弘前裁判所
秋田支庁、長野下新町(現、中通六丁目、南通築地)の秋成社機業場とと
もに、ここ東根小屋町(現、中通一丁目四)にあった八幡神社(現在の八
幡秋田神社)も視察した。」
1881年(明治14年)9月に明治天皇が秋田県に行幸されたことを記念した、いわゆる明治天皇聖蹟の一つですな。秋田県内に結構あるね。今度まとめてみようね。
そして、もうひとつは?
久保田藩黌明徳館址(「黌」は「校」の旧字です)
「 明徳館は、秋田藩九代藩主佐竹義和(一七七五〜一八一五)が開設した
藩校である。
寛政二年(一七九〇)にここ旧東根小屋町(現、中通一丁目四)に校舎が
完成し、当初は学館と称した。寛政五年(一七九三)には儒学者山本北山を
招いて規則を定め、校名を明道館とし、文化八年(一八一一)に明徳館と
改めた。
明治三年(一八七〇)に藩学校と改称されるまで明徳館と呼ばれ、藩士
に対して儒教の代表的な経典である四書などの経書や史書の講義が行わ
れたほか、医師の師弟や藩士の二、三男などを対象に医学を教えた医学
局、日本の古典を研究する和学局も設けられた。」
高校の名前に採用されている明徳館は、藩校の校名だったんだよ
秋田市立中央図書館の名前も明徳館ですよね。これも藩校にちなんで名付けられたそうですよ。
おや?なかいちでは、この日イベントがあったようですね。
たしか、ブラウブリッツ秋田の試合実況を映した大きなスクリーンがあって、
みなさん集まって応援していたみたいでしたよ。
Jリーグの公式サイトとやらの情報だと、対戦相手はFC町田ゼルビアということじゃ。
2-0で勝った試合だったんですね。よかったよかった。
それでは、景気よく、エリアなかいちを後にして南下しましょう。
南下を続けますと、中央通りと交差しますので、横断しましょう。
中央通りを渡ると、すぐに公園が見えてきます。
公園の中にある標柱によると、公園のあるここ中通三丁目も含むこの参勤交代の道沿いは昔「東根小屋町」と言ったそうですよ。
今通っている参勤交代の道のもう一本西側の道沿いの町は「西根小屋町」といったそうで、この両「根小屋町」には、禄高の高い家臣の屋敷が配置されたそうです。お城の近くなのでやっぱりそういう配置になるのでしょうね。
ーーーーーーー
ちなみに、旧西小屋町の標柱は、中通小学校のグラウンド脇にありましたよ。
ーーーーーーー
秋田県公文書館デジタルアーカイブ 秋田市詳密地図 附商工人名記 明治34年
秋田県公文書館デジタルアーカイブから、
明治期の地図を探してみましたら
ちゃんと東根小屋町、西根小屋町の町名がありますね。
明治期もこの町名だったんだね。
この頃もまだ結構堀残ってるぞ。
興味のある人は、地図をもっと見てみてね!!
この「旧 東根小屋町」の標柱がある公園は、エリアなかいちから150m南にありますよ。
そして進む方向(南)、100m先には「旧黒澤家住宅跡」があります。
この公園の名前は「中通三丁目街区公園」と言うそうです。
東根小屋町公園にしてくれればいいのに
それでは、公園をあとにして参勤交代の道を南下しましょう。
先程の中通三丁目街区公園から100m程進むと、旧黒澤家住宅跡地があります。
といっても、標柱があるだけなんですけどね。
この駐車場の場所に黒澤家住宅があったんじゃよ。
標柱に説明書きがあるので書き出してみましょう。
旧黒澤家住宅跡地
「 この地にあった旧黒澤家住宅は、江戸時代中期を中心とした主屋・表門・土蔵・
米蔵・木小屋・氏神堂から構成される上級武士住宅の建物がまとまって残る全国
でも貴重な建造物である。昭和六十三年に一つ森公園内に移築復元され、平成元
年五月十九日に国の重要文化財に指定された」
一つ森公園に移築された黒澤家住宅はここにありますよ。
別の日に、一つ森公園の黒澤家住宅に行ってきたので、写真をお見せしますね。
ーーーーここから下は別の日に行った、一つ森公園の旧黒澤家住宅の写真です。
一つ森公園にある旧黒澤家住宅です。
観覧料は大人100円、高校生以下は無料となっております!!
さらにさらに500円の「くるりん周遊パス」を買えば、ここ旧黒澤家住宅もあわせて、
9つの施設(千秋美術館、佐竹資料館、久保田城御隅櫓、赤れんが郷土館、ねぶり流し館、旧黒澤家、秋田城跡歴史資料館、如斯亭、秋田県立美術館)を見学できちゃいます!!1年間有効!!激安だろ?!
おすすめです!!
恒例の説明書きの書き出しをしますかね。
『国指定重要文化財 旧黒澤家住宅
旧黒澤家住宅は今から約三百年前に現在の
秋田市中通三丁目に建てられた上級武家屋敷
である。当時の中通は久保田城三廓と呼ばれる
上級武士の町であった。
江戸時代において、藩士の住宅は身分や石高に
応じて藩から与えられていたため、旧黒澤家
住宅も芳賀家、赤田家、吉成家、平井家の順に
居住者が変わり、文政十二年(一八二九年)から
石高五〇〇石、山奉行、寺社奉行の要職を務めた
黒澤家が居住した。
書院造りの主屋、長屋門形式の表門、土蔵、
米蔵、木小屋、氏神堂の六棟からなり、江戸時代の
建物配置がそのまま残る全国的にも類例の
ない貴重な文化財である。
平成元年五月十九日指定 文化庁 秋田市教育委員会』
いまの中通のあたりも廓(くるわ)、
つまり城内なんじゃよ。堀の内側じゃからな。
黒澤家住宅の写真をいくつか、貼っておきますね。
かっこいいでしょー
ーーーーここから上は別の日に行った、一つ森公園の旧黒澤家住宅の写真です。
それでは、今回は旧東根小屋町にある旧黒澤家住宅跡地に着いたところで、今回は終わりにしたいと思います。
次回は、旧黒澤家住宅跡からさらに南下しますよ。
まだまだ、我が参勤交代の行列は廓内におるぞw
下に〜下に♪
その3につづく
前回、久保田城〜楢山登町編 その1はこちら
まとめページはこちら
ーーーーーーーーーー
白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
今回は特にないですかねー
ーーーーーーーーーー
参考文献1:渡部景一「図説 久保田城下の歴史」無明舎出版 2009
参考文献2:渡部景一「秋田市歴史地図」無明者出版 1984
ーーーーーーーーーー
初稿:2022-11-5
コメント