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どうもー、白くま父さんです。
仁井田一里塚〜御所野一里塚編に入って、今回は第3回目です。
仁井田一里塚跡から御所野一里塚までの経路は以下のとおりです。
前回までで、国道13号線に2回目の合流をはたした後、御所野の入り口にある「御所野配水場」にたどり着つきました。
今回はいよいよ御所野に入っていきますよ。
御所野は元々儂ら藩主の鷹狩り場だったんだけど、
街道沿いなのに、この先の豊成から横山の間民家が何もないのは
旅人にとって危険だろう思って、新たに村を作ったのだ。
参考文献1、2によると、「六郡郷村誌略」にそのような記載があるそうです。
秋田県立図書館にあるみたいなので、今度読んでみますね。
いまはものすごい住宅街&商工業団地だけど、
私が子供の頃も、のどかな町という感じだったけどなー
それでは参りましょうか。
ここが、前回の終了地点です。
左側:国道13号線、右側:羽州街道 となります。
もちろん、羽州街道を進みますよー。
御所野配水場の門の前を通過します。
藩政時代からの並木ではないと思いますが、並木道が続きます。
木の根が張っているせいで、アスファルトがガタガタに波打っており、とても歩きにくい並木道ですw
とても歩きにくいので、反対側の道路端を歩きます。
御所野配水場から200mほど進みますと、このような変形十字路にあたります。
本当はほぼ真っすぐ羽州街道は進むのですが、御所野ニュータウンの宅地造成のため、この変形十字路で羽州街道はかき消されております。
よって、ここから恒例のワープしなければなりませんが、その前にちょっと寄り道します。
変形十字路で右折をしてみると、並木の間に看板と石碑が見えます。
近づいていくと、たどり着く前につまづいてしましました。
三級基準点だそうです。御所野を宅地化する際に測量するために埋め込んだんでしょうね。
いやいや、これが目的ではないのです。石碑、石碑!!
石碑は「明治天皇御野立跡」と彫られております。
石碑の裏には
「明治十四年九月十八日 御巡幸記念
大正十四年八月 四ツ小屋村建立」
とあります。八橋一里塚〜牛島一里塚編 その5でも登場した1881年(明治14年)9月に明治天皇が秋田県に行幸されたことを記念した、いわゆる明治天皇聖蹟の一つですね。
説明板には以下のように記載されておりました。
「明治天皇御野立跡
明治十四年(一八八一)明治天皇は、左大臣有栖川宮親王・参議大熊重信以下三百五十余名の随員と共に、東北・北海道を御巡幸される。
同年九月十一日青森より矢立峠を越え、秋田県入りした御一行は、九月二十二日院内峠を経て山形県 に入るまでの十二日間、県内各地で盛んな歓迎を受けられる。
この間、各地の戊辰戦争における戦没者の慰霊追悼をはじめ、開墾地や農作業等の御視察および関係 功労者の褒賞を行い激励される。また、県庁、裁判所警察署、学校、産業施設等を御訪問され、これらを督励される。
九月十六・十七日の両日明治天皇は、秋田町大町三丁目の瀬川安五郎邸に御宿泊され、翌十八日、羽 州街道を経て境村(現協和町)の行在所へむかわれる。その途中この地に御駐輦になり秋田平野の風景 と、心地よい清風に御巡幸のお疲れをいやされる。
後年の大正十四年八月、当時の四ツ小屋村が天皇の御巡幸を偲び「明治天皇御野立跡」の記念碑を建 立し、後世の村民の心の寄りどころとして聖蹟の保存につとめる。
平成三年十月吉日
秋田県都市開発関係地域連絡協議会」
大熊重信さんも一緒に来ていたとは知らなかったなぁ。
これから先、羽州街道沿いに明治天皇聖蹟はたくさんありそうですね!!
それでは、変形十字路に戻ってワープをします。
変形十字路から赤い破線のように羽州街道は通っていたはずですが、宅地造成のため無くなっています。よって、黃緑色の線のようにワープしました。
ーーーーここからワープ (2021-9-7 追記)
変形十字路から進みますと、こちらの交差点にでますので、横断歩道を渡ります。
そして、平成歯科医院の前を通過します。
ここらへんは御所野元町二丁目です。どんどん直進です。
そして、こちらの十字路を右折です。
また、どんどん直進します。
そして、左手にお店が見えてきましたら、左折しワープは完了です。
ーーーーワープはここまで (2021-9-7 追記)
羽州街道に戻りました。ここを直進しますよ。
そして、どんどん直進します。
こちらの神社の前に出てまいります。
御所野八幡山神社が羽州街道脇にあります。
こちらは、八橋一里塚〜牛島一里塚編 その9(完)で登場しました三皇熊野神社の奉仕神社ということです。
おなじみ庚申塚です。なんと!!平成十二年の七庚申塚です!!
平成の御代に至るまで、この辺りでは庚申待の風習が続けられていたということです。
なかなかのコミュニティの結束の強さが感じられます。
御所野地区の区画整理事業の記念碑と概要の看板です。
この神社にこれらの物があるということは、昔の御所野の中心にこの神社が有ったということなんでしょうね。
御所野の開発は、平成9年(1997年)9月8日に工事着工され、平成17年(2005年)5月2日に完成したとのことです。白くま父さんにとってはつい最近ですよw
でも、御所野イオンは平成5年(1993年)に出来たんですよ。ゲームセンターに自転車で行ったのでよく覚えています。
ということは、この事業は?
御所野の開発の歴史は、Wikipediaの御所野ニュータウンの項を見たほうが良さそうですね。
秋田市が、その昔将来人口40万人を想定して、その人口の受け皿として御所野を開発したことが描かれてますね。
結局は河辺郡を合併しても33万人強が最高で後は減少していっております。
昔盛んにニュースで、「秋田テクノポリス構想」って単語がつかわれていたよねー、そういえば。なつかしーw
お地蔵様も祀られております。キューピーちゃんや、ペコちゃん、招き猫までおります。
もしかすると、区画整理の際に御所野各地にあるお地蔵様や庚申塚などが、こちらの神社に集められて再設置された可能性もありますね。結構整然と並んでいますので。
だいたい古い神社だと結構雑然としてるんですよね、石碑とかの配置が。
こちらの扁額は昭和四年(1929年)9月20日に秋田市鉄砲町の泉谷さんと言う方が奉納されているのが解ります。
1929年9月4日のアメリカの株価大暴落から世界恐慌が始まりますから、なんともいえない不安の中、ご寄進されたのでしょうか。あの激動の時代を無事くぐり抜けることが出来たのか、とても気になります。
御所野八幡山神社の由来を書いた看板です。だいぶ薄れていますので、書き起こしますね。
「八幡神社(御所野)の由来
祭神 天照皇大神 水波能女の大神
祭日 旧暦三月十八日(昔は八月十八日)
由来
昔、部落内杉沢の地に大木茂り、これを切らんとしたが、その根元に木像の観音様が置かれていることを発見し、時の肝煎がこれを自家に持ち帰らんとしたところ、その後肝煎家にしばしば変事が起きたことにより神社を建てこれを祭った。
又大木を切り倒した跡は雨池と称し低地をなし、現在尚常に水をたたえている。
この雨池は、昔田村将軍東征の際将軍に追われた大人の左の足跡といわれ、秋田市豊岩字小山に右足跡があるとの伝説がある。
平成元年十二月
秋田市制百周年記念
ふれあいイベント
上北手実行委員会」
なかなか、面白い由来ですね。
ということは、この神社は昔の肝煎、つまりいまで言う村長さんの家のそばに建てられたということですよね。
この雨池はどこにあるんですかね?
これから行く御所野一里塚の北側の一つの住所が、
上北手御所野字雨池通といいますので、もしかしてその辺りですかね?
雨池自体は宅地造成で無くなっているかもね
その場合、場所の特定は、また宿題ですね。
ちなみに、秋田市豊岩字小山ってこの辺ですよ
左足が御所野で、右足が豊岩字小山って
かなりデカイやつだな、大人ってw
いわゆる「だいだらぼっち」伝説の一種なんですかね?
豊岩字小山の右足の跡伝説の場所も宿題ですねえw
さて、御所野八幡山神社を後にして、羽州街道を進みます。
住所は御所野元町4丁目です。元々の御所野の集落のあった場所なので、「元町」なんですかね?
ーーーー2022-1-4追記
秋田県立博物館に「足栗毛」という資料があるそうです。
どうやら、弥次喜多道中で有名なで十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にあやかって付けた題名のようで、刈和野〜土崎までの羽州街道沿いの風景二十箇所を描いたものだそうです。
秋田県立博物館研究報告というものが、Web上でPDFで読めるのですが、その第31号(2006年)でこの「足栗毛」が紹介されておりました。これです。
作者不明ですが江戸時代の羽州街道沿いの風景がよく解る資料だと思います。
5ページ目に
「13 御所野
猿田街道 御所野の風景 横山を詠め 新谷(新屋)砂山遠見の図
松原や 扇の鶴も 羽を休め
極楽も かくやと ばかり 御所の原」
という説明ともに江戸時代の御所野の風景画が紹介されております。
猿田街道とは、羽州街道の別名なのでしょうか?上北手猿田は御所野から見ると、今のスーパーセンターアマノ御所野店から1Kmくらい北に有りますから、御所野から北の猿田までの古い街道があるのかもしれませんね。
その御所野から横山を眺め、日本海側の新屋方面の砂山を遠望しているいう、なかなかの構図です。
さらに詩で風景をべた褒めです。松原もすばらしく、極楽もかくや!!と御所野の原が詠われております。
宅地化でこの絶景が消えてしまったということなのでしょうかね〜
この風景画がカラーで見られないのが残念です。
秋田県立博物館さん、是非ともデジタルアーカイブで「足栗毛」の公開をおねがいしまーす。
ーーーー2022-1-4追記ここまで
さらにどんどん、羽州街道を直進します。
すると、このT字路にあたり、羽州街道は途切れてしまします。
ーーーー2021-9-7 追記
参考文献4によると、このT字路付近に御所野八幡山神社のところで出てきた「雨池」があったようですが、昭和50年代の御所野の開発で道路を通す際に無くなってしまったそうです。さみしいですね。
ーーーー
土地区画整理によって、羽州街道がまた消されてしまっておりますので、再びワープします。
T字路から赤い破線のように羽州街道は通っていたはずですが、区画整理のため無くなっています。よって、黃緑色の線のようにワープします。
ーーーーーここからワープ中
T字路から、南西に進みます。左にみえるのはパチンコP・ZONEさんですね。
あの青看板の「秋田空港」方面にワープするのです。
こちらの交差点を左折し、今度は南東に進みます。
南東に進み中です。左がパチンコP・ZONEさんで右がヤマト運輸さんです。
そして、こちらのT字路でワープが終わります。
中古車オークション会場さんの看板が目印です。T字路突き当りのファミリーマートさんも良い目印でしょう。
ーーーーここまででワープ終了
このまま、羽州街道は南西に進みます。御所野の端っこが近づいてまいりました。
はい、御所野一里塚の北側の場所に到着です。
参考文献3によると、その昔こちらの株式会社リーテックスさんの入り口に丸みのある石が置いてあり、一里塚の印だと言い伝えられていたそうです。
でも、そんな石は探してもありませんでした。
そして、御所野一里塚の南側は向かいの高清水さんの付近に有ったそうです。
行ってみましょう!!
清酒 高清水 醸造元 秋田酒類製造株式会社 御所野工場さんの門の前まで来ました。
参考文献3によると、高清水さんのあたりに昭和の始めころまで、一里塚の盛土が残っていたそうです。
また、公図で探さないと駄目ですかね?
おい、ちょっとまて!!あの黄色いのなんだ?
え!!あれはもしかして?いってみましょう
なんかカバーしてますね!!
もしかして、元一里塚を示す標柱と、その説明看板なんじゃね?
八橋の一里塚みたいに字が消えたりしないように、冬の間雪から保護してるんですかね?
この覆い外せないの?
いやー、2021-3-28は日曜日で、さらに旅は早朝にやってますので、工場は開いてませんよ。
ぐぬぬ。。。
もしこれが御所野一里塚を示す標柱と看板であれば、八橋一里塚以来の標柱となりますね。参考文献3には、そのような標柱がある記載はないのですが、果たして真相はいかに!?
ここで今回の「秋田県南部羽州街道歩き旅 仁井田一里塚〜御所野一里塚編」は、その3で終了です。
次回の「秋田県南部羽州街道歩き旅 御所野一里塚〜川原田一里塚編」その1にご期待下さい!
次回も乞うご期待!!
次回、秋田県南部羽州街道歩き旅 御所野一里塚〜川原田一里塚編 その1 はこちら
前回その2はこちら
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
御所野八幡山神社の伝説の「雨池」の場所や、豊岩字小山の右足の跡の場所をご存知の方はおしえてください!!だいだらぼっち伝説、面白そうです!!
2021-9-7 追記 雨池の場所については、参考文献4で判明しました。また、だいだらぼっちというか大人(おおひと)は、大滝丸とか大武丸、大多鬼丸などと呼ばれている、伝説の蝦夷の酋長(鬼)のことらしく、秋田に限らず東北各地に伝説があるようです。征夷大将軍 坂上田村麻呂の軍が当時の東北地方に与えた影響が余程おおきかったものとおもいます。東北人としては「ぐぬぬぬ」という感じですがねw
2022-1-4 追記 秋田県立博物館さん、是非ともデジタルアーカイブで「足栗毛」の公開をおねがいしまーす。カラーで!!
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参考文献1:秋田県教育委員会「歴史の道調査報告VIII 南部羽州街道」1986
参考文献2:藤原優太郎「羽州街道をゆく」無明舎出版 2002
参考文献3:佐藤晃之輔「秋田・羽州街道の一里塚」秋田文化出版 2013
参考文献4:御所野の歴史文化を語る会「御所野の歴史文化を語る会 創立16年の歩み」2015
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初稿:2021-8-22
追記:2021-9-7、2022-1-4
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