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前回から始まった秋田県南部羽州街道歩き旅。
八橋一里塚跡から牛島一里塚までの経路は以下のとおりです。
今回は、八橋一里塚跡→新国道との交差点→六道の辻 まで行きます。
まずは、前回の八橋一里塚跡から、まず東進し新国道方面へ歩いていきます。
歴史的なものでなくても、面白そうなものは写真を撮っていきます。だって、後でそれも歴史の形跡になるんですよw
左手に見えてきましたお店「手品家」さん。手品用の道具でも売っているのでしょうか?ブラボー中谷さん御用達?
そして右手に見えてきたのは、「ラムだっちゃ」さん、羊のお肉を食べさせてくれるのでしょうか?
ビキニの鬼娘を思い浮かべるのは、私だけではあるまい。
この辺は「高陽青柳町」というんですね。この辺の旧住所は「八橋字一里塚」と言ったそうです。すごい、そのものズバリですねw
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さらに、どんどん東進します。
右手に、神社がありました。見た目は結構新し目です。場所はここです。
狐の彫られた大理石があるのでお稲荷さん(稲荷神社)なのでしょう。グーグルマップにも稲荷神社と書いてますね。
狐さんの裏には「昭和55年9月 花立町 町内会一同 建立」とあるので、1980年建立ということですから、結構新しいですね。
この辺の地名はバス停の示すとおり、「高陽幸町」といいますが、旧町名は狐さんの大理石の裏に書いてあったように「花立町」といったそうです。
「花立町」といえば、秋田万才(県指定無形民俗文化財)の発祥地と聞いたことがあるので、調べると秋田県の広報にありました。
ホットアイあきた(通巻378号) 1994年(平成6年) 1月1日発行
「江戸期に城下花立町(現秋田市高陽幸町)の芸能に長けた人々の手に移ると、万歳は花立町の人々に限って行われるようになった。彼らは万歳組合をつくり、組ごとに回る月日、場所を割り振る場所割りや万歳師の資格試験まで実施して組数を厳選するなど万歳師の質の維持に努めた。」
なんか、今回の経路の途中にある「ねぶり流し館」で、定期的に公演が観られるという噂を聞いたことがあるので、機会があったら是非観たいです。
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ハイハイ、さらにさらに東進しますと、とうとう新国道との交差点にでます。この交差点の名前は「鉄砲町交差点」です。
この辺は、江戸時代鉄砲足軽たちが住んでいた足軽町が有ったそうです。
確かに正保城絵図でも足軽町となってますねぇ。この方達が鉄砲足軽さん達だったわけです。
(加工していない元の絵図を見たい方はこちら)
正面方向に進むのが羽州街道です。通町方面に向かいます。
左右に交差しているのが通称「新国道」。いまは県道56号線なのですが、秋田市民は、茨島交差点もしくは山王十字路から土崎臨海十字路交差点までの経路を「新国道」と呼びます。昭和49年(1974年)まで、ここは国道7号線だったのですが、国道でなくなって47年経った今でも、ここは秋田市民に「新国道」と呼ばれております。秋田県外から来た方が、??となる点ですね。
新国道は本当に定着していてこの付近のお店をちょっとピックアップしますと「モスバーガー 秋田新国道店」「マクドナルド 秋田新国道店」「サブウェイ 秋田いとく新国道店」「秋田トヨタ自動車(株) 泉新国道店」「ケンタッキーフライドチキン秋田新国道店」「ガリバー秋田新国道店」「ドコモショップ秋田新国道店」などなど、もう当たり前のように店名になっております。
もう、地名ですね!!
新国道の土崎方面をみますと、茶色い大きな建物が見えます。秋田中央郵便局です。昔の「本局」ですね。
新国道の山王十字路方面をみています。遠くに見える大量の青看板の辺りが、山王十字路です。
鉄砲町交差点を横断して、今来た八橋一里塚方面を観ています。あーw「手品家」さんの広告ですかね?マジシャン「ヨッシー」さん、いつか見に行きますよw
青看板ですね。茨島は山王十字路方面、寺内・八橋は八橋一里塚方面ですね。県道56号線が新国道です。
それでは、通町方面に羽州街道をたどって向かいますかね。
鉄砲町バス停を通過。どうも今回はこの辺で勝平神社を見逃したようです。後で、また探索に行きますね。
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旭北栄町バス停を通過。六道の辻が見えてきましたよ。
はい、六道の辻はグーグルマップではここになります。
はい、ここです、ここ。「六道の辻」の名前は知らなくてもこの複雑な交差点を知っている方は多いでしょう。
なんでこうなってるんだ、通りにくいなあと思っている貴方、貴方は400年前の佐竹義宣公の街作りにまんまとハメられております。わざと通りにくくしているんです、敵が攻めてきた時に守りやすいように!!
参考文献1を引用します。
「六道の辻は久保田城の西の虎ノ口にあたっている。鉄砲町を東に直進した街道は中の土手に突きあたってT字に南北に分かれるが、その手前に、南北にはしる土手が北側と南側から道をはさみ、その土手に接して西側に水堀があった。街道は南北から土手に挟まれるが、そこには虎ノ口があり、緊急の時には閉鎖した。城側から見てそこが「六」の字状に道がはしるため六道の辻と呼んだのである」
虎ノ口というのは、虎口ともいいますが、城郭、あるいは曲輪の正面開口に当たり、城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御される場所です。Wikipedia:虎口
では、江戸時代の絵図で六道の辻をみてみましょう。(加工していない元の絵図を見たい方はこちら)
重要文化財 正保城絵図 出羽国秋田郡久保田城画図 正保元年(1644年) 国立公文書館デジタルアーカイブより
八橋一里塚方面から、羽州街道を突き進んできた敵軍は、まず鉄砲足軽たちの攻撃を受け、その後突破してきた敵軍は、六道の辻の土塁と水堀で止められてしまっているところを、久保田城兵に攻撃されてしまうという感じでしょうかね。
久保田城下もこうしてみるとなかなかの防衛拠点になっていたことがわかります。あそこに、土塁と水堀があったんですね。寺町も防衛のために形成されたんですよ。
イメージを思い浮かべるためにも、現代の地図に六道の辻にあったとされる土塁、水堀をちょいと書き入れてみました。
黄緑の部分が土塁、青の部分が土塁と西側に水堀です。
なかなかの存在感ですね。今も土塁と水堀があったら、結構な観光地だったでしょうに。見たかったなあ、実際に。
ちなみに今回の経路にある赤れんが郷土館の出口にある展示物に、通町、大町といった「外町」のちょっと立体的な絵図があるのですが、六道の辻も描かれており、なかなかの堀と土手が有ったことがわかりますよ。是非見てみてください。おすすめです。
また、六道の辻にあった銭湯の話題は、川端たぬきさんの二〇世紀ひみつ基地をご覧ください。
さて、六道の辻に思いを馳せるのはこれくらいにして、通町へむかいましょう。
その3へ続く(まだ、六道の辻かい!!)
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
六道の辻には、ここが六道の辻であることの説明書きが現地に何も見つけられませんでした。なにか、標柱とか看板とか掲示板とか設置できませんかね?
関係者の方、ご覧になられましたらご対応よろしくお願いいたしまーす。
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参考文献1:秋田県教育委員会「歴史の道調査報告VIII 南部羽州街道」1986
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初稿:2021-4-20
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