秋田県南部羽州街道歩き旅 八橋一里塚〜牛島一里塚編 その1

秋田県南部羽州街道
八橋一里塚の様子 秋田街道絵巻 上巻 伝 荻津勝孝 秋田市立千秋美術館所蔵 より

どうもー、白くま父さんです。

とうとう始まりました。

まずは、今回の「八橋一里塚」から「牛島一里塚」までのコースです。

2021年現在の地形図では、以下の経路になります(経路は参考文献1、2、一里塚の場所は参考文献3を参考にしました)。

国土地理院 地形図 2021 を加工 赤線の経路が「八橋一里塚」から「牛島一里塚」羽州街道

八橋一里塚(八橋本町) → 山王二丁目、高陽幸町 → 新国道と交差 → 六道の辻 → 通町 → 大町筋 → 旭南二丁目 → 馬口労町 → 刈穂橋で旭川を渡る → 楢山登町 → 牛島橋で太平川を渡る → 牛島一里塚跡(牛島東5丁目)

本当にこうなの?この経路が昔のメインストリートである羽州街道?いまの主要道路から大分ずれてるじゃないのと疑うのは良いことなので、もうちょっと古い地形図も観てみましょう。

下記は、大正元年(1912年)に帝国陸軍が測量し、昭和13年(1938年)に修正した地形図です。

(元の加工をしていない地形図を見たい方はこちらをご覧ください。)

大日本帝国陸軍 参謀本部 陸地測量部 大正元年測図 昭和13年修正 5万分の1地形図「秋田」を加工
赤線の経路が「八橋一里塚」から「牛島一里塚」羽州街道

どうです。だいぶ現代の主要道路が削ぎ落とされましたね。戦前は山王十字路、ケヤキ通り、新国道が無かったんですね。新国道はいつ国道だったんでしょうね?(県外の方は知らないかもしれませんが、新国道は現在県道ですw)六道の辻の辺りに鉄道がありますね。約100年前はこんな感じだったんです。山王は田んぼと畑ばっかりです。

だいぶ羽州街道が浮かび上がってきましたね。羽州街道周辺に都市化がすすんでますよね。ほかの場所ならこのくらいが限界なんですが、今回歩くのは城下町の部分なので、江戸時代の絵地図があります。折角なんで、みてみましょう!!

(加工していない元の絵図を見たい方はこちら

重要文化財 正保城絵図 出羽国秋田郡久保田城画図 正保元年(1644年) 国立公文書館デジタルアーカイブより 赤線の経路が羽州街道

この絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図のうち、秋田の久保田城城下町のものです。江戸時代の秋田市の市街地の様子がわかりますね。旭川の左側を「外町」と呼び町人の町、旭川の右側を「内町」と呼び侍の町としたそうです。楢山の辺りに武家屋敷があったんですねぇ。「八橋一里塚」「牛島一里塚」は描かれていませんが、今回の経路の大半が描かれています。

どうです?もうほとんど疑う余地のないほどのメインストリートな経路でしょう?牛島橋がまだ架かってないのがちょっと謎ですが、この浮かび上がってきた羽州街道を、トボトボ歩いてたどって行きますよ!!

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では、記念すべき今回の旅のスタート地点である「八橋一里塚」跡へ行ってみましょう。googleマップで示すと以下になります。

場所は、秋田市八橋地区の秋田市役所と八橋運動公園の間の「けやき通り」を北に進んだところにある「八橋一里塚交差点」にあります。わかりやすーいw

八橋一里塚交差点 2021-3-20
八橋一里塚交差点 2021-3-20

「八橋一里塚]跡は、けやき通りの中央分離帯にあるので、車に気をつけて中央分離帯に渡ります。

八橋一里塚跡 標柱 2021-3-20

立派に標柱が建ってます。残念ながら塚はありません。ま、塚が残っている方が珍しいのですが。

八橋一里塚跡 標柱 2021-3-20

「慶長九年(一六〇四)幕府の命により江戸日本橋を基点として主要街道の一里(約四キロメートル)ごとに塚を築き、榎、さいかちなどを植えて道程の標識にしたもので、ここ八橋一里塚までの距離は一四三里である。」

八橋一里塚跡 標柱 2021-3-20

秋田市制100周年を記念して標柱を建てたんですね。良いことです。平成元年(1989年)が秋田市制100周年ということですから、32年前ですね。うおー、当時高校1年生だよ。。。おっさんになったなあ。

八橋一里塚跡 パネル 2021-3-20

この標柱の後ろにある真っ白なパネルは何でしょう?と、このときは思ってたんですよ。で、帰宅して参考文献3を読んでびっくり。このパネルには、昔こう書いてあったそうです。

「八橋一里塚のえのき このえのきは道の里程を示す道標として一里塚跡に植えられたものであり、後世への証として大切に守っていきたい木のひとつである。 平成2年3月 秋田市緑化推進委員会」

!!

おいおい、いやいやいやいや、消えてるから後世への証もなにも、伝わりませんよ!!守れませんよ??

えのき?どの、榎の木よ?と焦りましたが、写真には写ってましたね。

八橋一里塚跡 標柱 2021-3-20

この標柱の背後の木が、その榎の木ということです。

えー?、江戸初期に植えられた木にしては小さいのですけど?、と思っていたら、過去の秋田県の広報紙に記載がありました。

あきた(通巻235号) 1981年(昭和56年)12月1日発行 18/40ページ

「秋田市八橋一里塚 昭和初期まで現秋田テレビ付近八橋街道を挟んで両側に存置し、塚上に榎の巨木が繁茂していた。昭和三十九年の川尻方面からの道路貫通で破壊の運命に晒(さら)されたが、故奈良環之助氏の尽力で旧塚上に補植された榎を現在地に移し保存が図られた。」

昭和初期まで、一里塚現存したんですね。大正元年の地図では小さくて見えないなあ、残念。

八橋街道というのは、今回たどる羽州街道のことです。場所によっていろんな名前で呼ばれたそうですよ。

旧塚上に「補植」された榎と記載がありますね。「補植」とは造林などで、苗木が枯れて空地ができたとき、再び苗木を植えること、だそうです。

つまり、江戸時代の榎はすでに枯れており、旧塚上に代わりに植えられた榎を奈良さんのおかげで移されて保存された ということですから、この写真の榎は奈良さんのおかげで救われた「2代目の一里塚の榎」なんでしょうね。

大切にしましょう。2代目でも塚に植わっていたんですからこの先何百年も経てば貫禄も付きますよ!!

ちなみに川尻方面からの道路貫通というのは、けやき通りのことですね、きっと。現代の地図と大正元年の地図を見比べれば、そうなります。

それでは、昔の八橋一里塚の絵図を見てみましょう(アイキャッチの画像です)。

八橋一里塚の様子 秋田街道絵巻 上巻 伝 荻津勝孝 秋田市立千秋美術館所蔵 より

こんな風に、道の両脇に塚が築かれて上に木が植えられているのが一里塚です。一代目の榎、植わってますね!!

この図は皆さん土崎方面に向かってますので、私が向かう通町方面とは逆方向に向かってますね。

また、おなじく荻津勝考さんの「秋田風俗絵巻」(秋田県立博物館蔵)にも、八橋一里塚がありました!!。こちらのリンク先(秋田県立博物館デジタルアーカイブ)をご覧ください。立体的な八橋一里塚ですね!!(2021-5-23追記)

荻津さん、貴重な絵図を残してくれてありがとうございます。

さて、私も旅を初めましょうかね。

その2へ続く(いやいや、まだ歩いてないやん!!)

まとめページはこちら

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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!

秋田市さんへ:八橋一里塚跡のパネルに再度説明書きの記載をお願いします。今度は消えないようにパネルに彫刻されては如何でしょうか。

関係者の方、ご覧になられましたらご対応よろしくお願いいたしまーす。

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参考文献1:秋田県教育委員会「歴史の道調査報告VIII 南部羽州街道」1986

参考文献2:藤原優太郎「羽州街道をゆく」無明舎出版 2002

参考文献3:佐藤晃之輔「秋田・羽州街道の一里塚」秋田文化出版 2013

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初稿:2021-4-15

各種デジタルアーカイブへのリンクを追加:2021-5-23

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