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どうもー、白くま父さんです。
はやくも、御所野一里塚〜川原田一里塚編に入って、今回で第3回目になります。
御所野一里塚跡から川原田一里塚までの経路は以下のとおりです。
前回までで、昔「三ノ渡」とよばれた岩見川の渡し場跡である「豊成橋」の前まで歩きましたので、そこからスタートです。
「秋田県史跡 豊島舘入り口」の看板があるね。
左折方向ですね。
もちろん、気になるので寄り道しましょうw
やっぱりなw
その1でも出てきました延宝六年(1678年)の川辺郡野田高屋村絵図にも、豊島舘跡は「古城」とかかれていおります。(加工していない絵図を見たい方はこちら)
また、岩見川から仁井田堰の水を引き込んでいる仁井田堰頭首工(戸島堰堤)も近くで見られますので、いっしょに見に行きましょう。絵図にもよく見ると点々と頭首工がなんとなくありますね!!
豊成橋を渡らないで左折し、岩見川北側の土手を歩き始めます。早速、あきたびラインの下をくぐります。あの看板はなんでしょう。
遊漁券を買い求めてから魚を釣るようにとのことです。岩見川はサクラマスが釣れるんですね。こんな早春から釣るのですね。4月1日に解禁だそうですから、解禁したばかりのようです。
白くま父さんは旭川でしか川釣りしたことがないので、サクラマスは釣ったこと無いなあ。
鮭が遡上してきたのは見たことありますけどね。
どんどん進んでいきます。田植えはまだですね。
またまた秋田新幹線こまちに遭遇です。思わず写真を撮ってしまいます。
そして、土手沿いを1Kmくらい歩きますと、このように看板が立っております。ここを左折すると豊島舘跡に行きますが、ここはあえて直進し寄り道しましょう。車で来た方も、直進したほうが停めやすい駐車場がありますよ。
土手の道を直進しますと、仁井田堰頭首工、つまり仁井田堰に水を引き込んでいるところが見えてきます。
川幅いっぱいに広がっていて、小規模なダムのような感じですね。
このゲートを上下させて、下流に流す分とせき止める分の水量を調節しているのですね。
この橋部に入って見学は出来ないようです。しっかり立入禁止です。まあ、大事な施設ですから当然ですね。見学ができるイベントとかがあると良いですね。ダムとかはありますよね。錦秋湖の湯田ダムをイベントで見学したことありますもん。検討をお願いしまーす。
こちらが管理施設のようです。この施設の前が車を停める駐車スペースがありますので、頭首工の見学、豊島舘跡の探索の際に便利ですよ。
管理施設に掲げられている水利使用標識です。
あれ?許可期限が平成30年3月31日だと、3年前に期限が切れているようなw
まあ、わたしはただの白くまなので黙っておきましょうw
かんがい面積は現在は710.7ha=7.107km2となっているようですね。
牛島一里塚〜仁井田一里塚編 その4(完)で紹介したように、かつては仁井田堰は最大で1300ha、つまり13km2もの面積を灌漑していたそうですから、約半分になっているということです。だいぶ仁井田が宅地化されたということなんでしょうね。
半減したとは言え、東京ドームが46,755m2なので、東京ドーム152個分の面積となります!!
7,107,000÷46,755≒152個
まだまだ、広大な面積を灌漑しておりますね。
頭首工から取水された仁井田堰がどのような経路で仁井田まで引かれているかを、国土地理院の地形図に着色してみました。
岩見川の頭首工から豊成を経て、御所野の丘をぐるり迂回し、横山、宝竜崎を経由し仁井田を潤しております。
仁井田に水を引くのに、
なんでわざわざ遠くの岩見川から引いてきたのかが
とても不思議だったんですよね。
近くの雄物川から何故引かないのかが。
謎は解けた?
完全には解けてはいないのですが、
頭首工をみて理由の一つが浮かびました。
なになに?
頭首工は見たように、川をせき止めなければいけません。
でも、雄物川は当時秋田藩の川船を用いた輸送の大動脈です。
せき止めると川船は通れませんので、雄物川から水は引けない。
なので、支流の岩見川から引かざるを負えなかった、と予想します!!
なるほどね。今後それが理由の一つか調べてみようね
また、仁井田堰は大幹線分水門で分水され、四ツ小屋も潤しております。四ツ小屋方面は武左衛門堰と言うそうです。
仁井田堰頭首工に戻りますね。
こちらは、メータの文字がちょっと読み取れないのですが、おそらく仁井田堰の取水量を測定するための流量計なのだと思います。そして、後に写っている方はお話をきいたところ、サクラマスを釣られているそうです。せき止めて水深が深くなっているところにいるのかな?
ここには、石碑が沢山ならんでいました。梅津家4代が完成させた後、頭首工や仁井田堰は何度も災害等で壊れたようで、その度に修繕・改良が繰り返されたようです。その記念碑がこの石碑群ということなんです。
ひとつ、読みやすい記念碑を書き出してみますね。
「沿革の概要
仁井田頭首工(戸島堰堤)は、曰く寛文2年(1662)を起源とする。この年、佐竹家の重臣梅津家4代に及ぶ仁井田堰開削と堰堤築造の大事業がようやく成就したことによる。
その後明治41年に至り、近代的な施設に改造すべく着工。当時としては稀に見る規模の頭首工は大正2年に完成した。以来、副堰堤を設置する等幾多の補強、補修工事を行い、特に昭和41年には県営事業による補強工事を施行した。
しかし築造後70年余を経た今日、頭首工の脆弱化は著しく、また護岸、護床も流失し、取水上の支障はもとより放置すれば倒壊、堤防欠壊の恐れを之生じ、加えて固定堰なるが故の溢流能力不足による治水上の問題もあり、これらの改修は正に焦眉の急であった。そのため抜本的な整備を図って昭和58年度に県営事業として新規採択され、平成2年度をもってここに堅牢かつ近代技術の粋を集めた頭首工が完成した。
本頭首工は、今後の取水及び水管理の安定と農業経営の合理化に大きく寄与するものであり、よってその竣工を記念するとともに事業の概要等を後世に永く伝えることを欲し、併せて千尋の遺業を偲んでここに碑とする。
平成2年7月」
梅津4代の遺業は、今も改良されながら使われていることがよく解りますね。歴史は現代へつながっているのです。
頭首工から取水された水は、ここから流れていきます。ここが仁井田堰の始まりです。
こちらにも、仁井田堰の説明がありますね。
今年も、おいしいお米が食べられますように、仁井田をうるおしてくだされ!!
ところで、昔は頭首工を堰根とか関根と言ったそうです。堰の水の取り込みの大元ということで根と言うのでしょうね。つまり、苗字が関根さんの方達のご先祖さんは、堰の管理なんかをしていた人たちなのかも知れませんよ。
ということで、今回はここで終わりにします。豊島舘跡は次回になっちゃいました。
その4に続きます。
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
仁井田堰頭首工を見学できるイベントが開催される予定がありましたら、教えてください。
というか、開催おねがいしまーす。
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初稿:2021-10-4
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