まとめページはこちら
前回その6はこちら
どうもー、白くま父さんです。
御所野一里塚〜川原田一里塚編に入って、今回で第7回目になります。
御所野一里塚跡から川原田一里塚までの経路は以下のとおりです。
前回までで、戸島の町の入り口まで歩きましたので、そこからスタートです。
今回は戸島の町を羽州街道をたどりながら探索することになります。
羽州街道を東に進みます。
戸島下丁バス停前を通過します。
先ほどのバス停にはこのような「秋田市マイタウンバス」というマイクロバスがやってくるようです。
秋田市のマイタウンバスのサイトによると、マイタウンバスは秋田市の郊外部における路線バスの不採算路線の廃止代替交通として、地域住民の移動手段を確保するため、市が事業主体となって運行しているコミュニティバスだということです。
利便性向上のため、一部区間を除き、全路線でフリー乗降を実施しており、マイタウン・バス路線の経路上であれば、バス停留所でない場所でも乗り降りができるということで、子どもや免許を返納したお年寄りには便利そうです。
私は歩きますがね!!
普段は車だろw
街道の並木っぽい感じのカッコいい木の横を通過します。
チョット進むと鳥居がありますので、入ってみます。
鳥居の奥にはこのような建物があります。
建物の中はこんな感じでした。なんの神様を祭っているかはわかりませんでしたが、おそらく町内の鎮守の神様を祭っているのでしょう。神社の講もあるようですね。
先程の鳥居からまた羽州街道を東に進みますと、消防団の消防器具置場が見えてきます。
この向かい側に小道がありますので左折して寄り道します。
小道を進みますと、このように十字路になってますが、真直ぐ進みます。
またまたこのように分かれ道になってますが、構わず真っすぐ進みます。
そうしますと岩見川にでまして、ちょうどその3で訪れました仁井田堰頭首工が川向から見ることが出来ます。仁井田堰頭首工の後に見える山の上にはその4で訪れました豊島舘跡があります。
戸島は豊島舘のかつての城下町であったということですが、それは戸島と豊島舘の位置関係からも納得できますね。
それでは、羽州街道にもどりましょう。
消防団の消防器具置場から羽州街道を再び東へ進み、戸島中丁バス停前を通過します。
やがて関兼商店さんの前に付きますので、こちらの向かいに伸びている道に右折して、またまた寄り道します。
ちなみに羽州街道はもちろんまっすぐ正面方向ですよ。あくまで寄り道で右折です。
どんどん進みます。
やがて左手に戸島小学校があります。
戸島小学校を通り過ぎて進みますと、布袋さんの石像が目印の満蔵寺があります。
ちょっとお邪魔させていただきましょう。
こちらの満蔵寺は、その4で出てきました豊島舘の説明板にも登場しており、豊島氏の菩提寺として中世からのかなり古い歴史があるようです。
立派な山門がありますね。
参考文献2によると、ここ満蔵時には幕末の短期間だけ椿台藩主となった佐竹 義諶の霊廟があるとのことですので、探してみました。佐竹義諶の佐竹壱岐守家のお墓はすぐに見つかりましたが、これは現代のお墓ですねえ。ですが、この横に霊廟があり
その霊廟のなかにこちらのお墓がありましたので、戒名で書かれているのでわかりませんが、おそらくこれが佐竹義諶の霊廟とおもわれます。
ちなみに、佐竹義諶が幕末の短期間だけ椿台藩主になったときに構えた陣屋である椿台陣屋は、この近くの椿台にあったといいます。地図に示しておきますね。今回は訪れておりませんが、今度行ってみます。
実際は、この椿台陣屋を建設中に戊辰戦争となり、久保田城防衛のため椿台では大会戦が繰り広げられたといいます。まあ、ここが破られたら久保田城下は戦火に晒されるのですから、必死の防衛戦となり激戦となるわけです。
見事防衛は成功し、攻め手の庄内軍を撃退します。ちなみに秋田藩は新政府側で、攻め手の庄内藩は奥羽越列藩同盟軍ですね。秋田藩も元々は奥羽越列藩同盟に加盟していたのですが。。。いろいろあるわけです。。。ドラマが。。。
秋田県内は戊辰戦争の戦いの大舞台となっているのですが、いまいち学校でも教えられていないと思いますので、そのうち調べてブログにしたいですね。奥羽越列藩同盟側庄内藩の酒井玄蕃という指揮官がとても優秀な名将で、秋田藩の属する新政府軍は散々な目に合わされるのですが。。。。
それでは、満蔵寺を後にして関兼商店さん前に戻り、羽州街道の旅にもどりますか。
関兼商店さん前から羽州街道を東進しますと、左手に戸島郵便局が見えてきます。
そして、戸島郵便局をチョットだけ通り過ぎたここ、理容サカタさんのところ横の小道を右折して、またまた寄り道です。
小道をすすみますと、大きな銀杏の木があり、その根本に
御本陣跡の標柱があります。本陣は、大名のように身分の高い人が泊まった宿です。つまり本陣があるということは、戸島は江戸時代の宿場、戸島宿です。久保田城下を出で初の宿場であり、次の和田宿とともに月を二分して交代で宿場を務めたそうです。まあ、佐竹の殿様の参勤交代では、久保田城に近いですから休憩することは有っても、宿泊はしなかったでしょうね。おそらく宿泊は同じく羽州街道をつかって参勤交代した津軽の殿様でしょう。
津軽は南部と仲が悪いから南部領通りたくないので、
羽州街道通るんだよねー
歴史的な問題ですねー
この先も宿場ではなるべく本陣跡を見つけていきたいと思います。次は和田ですな。
ところでこの本陣跡の銀杏の根元には秋には大きな実がたくさん落ちてますので、本陣跡探索がてら銀杏を拾うのも良いかも知れませんよ。
さて羽州街道に戻ります。
はい、御本陣から羽州街道に戻りまして、ちょっと東に進みますと戸島小学校前バス停を通過します。
え?戸島小学校って満蔵寺の方にありましたけど?前ってほどじゃないような。。。
戸島バス停からちょっと羽州街道を進んだところです。
なかなか格好良い松の木です。街道っぽくていいですね!!
羽州街道を進みますと、左手に民家と民家の間にお地蔵さんや石碑があるチョット広い場所があります。
ふつう、このような場所は村落の外れ、つまり村落の出入り口にあるのは今まで羽州街道を旅してきた経験からセオリーです。でも、このお地蔵さん達は民家と民家の間に位置します。
おそらく、この辺りが戸島の町の出口でこの辺から羽州街道は方向を変え、岩見川方面に向かっていたのではないかと、予想します。なぜなら、
現代の国土地理院地図と伊能忠敬の作成した「伊能大図:本荘、大曲」(伊能忠敬e史料館)をなんとか重ね合わせてみたところ、かつて江戸時代には、このような感じで羽州街道が岩見川を渡っていたようなのです。
つまり、戸島から岩見川を渡っていたのは、現代の戸島大橋よりもうチョット川下側だったようです。
ただ、この辺りの羽州街道の痕跡がわからないので、お地蔵さんからワープに入るということにしておこうと思います。
赤の破線のようにお地蔵さんの辺りから岩見川に向かって行って渡りたいのですが、進めませんのでワープします。
ーーーワープここから
お地蔵さんのすぐそばには戸島上丁バス停がありますので通過します。
さらに、東、いや南東かな?に進みますと、このように微妙なS字カーブがあります。うーん、この微妙なカーブも怪しいですねえ。もしかするとこの辺から岩見川に向かっていたのかも知れませんね!!
お地蔵さんから戸島大橋まで羽州街道の痕跡を見つけた方は教えてくださいね。
さらにすすみますと十字路があります。看板のように右に行くと秋田空港や国際教養大学に至ります。そして我々は左折北上し、戸島大橋に向かいます。
はい、戸島大橋に着きました。
もちろん渡るのは岩見川です。
チョットだけ土手を川下に行ってみましたが、うーん、しっかり護岸工事がされてしまってますから、昔の痕跡なんかわかりませんねえ。
ちなみにこの辺りの地名は、戸島中川原、向こう岸は戸島向川原といい、いかにも川原から渡ってましたよ感がある地名です。私がそう思うだけかも知れませんが!!
牛がいましたw
いや、街道の痕跡を見つけなさいよw
こちらは、その1、その6でも出てきました延宝六年(1678年)の川辺郡野田高屋村絵図です。(加工していない絵図を見たい方はこちら)
今回は渡る二回目の岩見川の渡しをかつては、「ニノ渡」もしくは「中渡」といいました。その「ニノ渡」付近を拡大してみましょう。
はい、また川の両端に綱を渡している様子が描かれておりますので、その6の三ノ渡と同じようにおそらく「繰り綱渡し」「繰り越し舟」といった川の両端に渡した綱を利用して舟で渡る方式で渡っていたのでしょう(こちらのサイトに昔、橋の無い川をどうやって渡ったかを解説したページがありますので、参考にしてください)。
しかも、この絵図は2回渡っています。つまり、1678年の江戸時代初期頃岩見川はこの辺りでは2つの流路に別れていて中洲がある状態であり、2段階で渡らなければいけなかったようですね。
なかなかの難所だったんでしょうかねぇ。
ーーーー2022-1-4追記
秋田県立博物館に「足栗毛」という資料があるそうです。
どうやら、弥次喜多道中で有名なで十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にあやかって付けた題名のようで、刈和野〜土崎までの羽州街道沿いの風景二十箇所を描いたものだそうです。
秋田県立博物館研究報告というものが、Web上でPDFで読めるのですが、その第31号(2006年)でこの「足栗毛」が紹介されておりました。これです。
作者不明ですが江戸時代の羽州街道沿いの風景がよく解る資料だと思います。
5ページ目に
「11 戸島の渡し 戸島邑の渡場図
郭公(カッコウ)なくや 戸島のささ濁り」
という説明ともに江戸時代のニノ渡の風景画が紹介されております。
やはり川の両端に渡した綱を利用して舟で渡る方式で渡る方式であることが解りますね。
この頃は、江戸時代初期と違って2段階ではなく、1段階の渡しだったようです。時代によって、もしくは川の流れや水量の多少で変わったのでしょうね。
岩見川は結構な大河に見えるとても良い構図です。
カッコウが鳴く、のどかな風景が浮かんできますね。
また、もう一つ同じ5ページ目に
「12 戸島駅 戸島駅馬役処の図」
という説明と共に戸島の宿駅の様子が描かれております。
御本陣跡付近の様子なのでしょうか、荷物を運ぶ人足や馬に餌をやる馬喰(ばくろう)、旅の武士や応対する役人の様子がいきいき描かれております。
これらの風景画がカラーで見られないのが残念です。
秋田県立博物館さん、是非ともデジタルアーカイブで「足栗毛」の公開をおねがいしまーす。
ーーーー2022-1-4追記ここまで
さて、戸島大橋に戻りまして、岩見川を渡りましょう。向こうに見える橋は「中の橋」といいます。「ニノ渡」の別の呼び名「中渡」に、ちなんだ名前なんでしょうかね。戸島大橋ができる前、メインの橋は「中の橋」だったようですよ。
さて、向こう岸が近づいてきました。青看板のとおり真直ぐ行くと、秋田、大仙方面です。はっきりいいますと、国道13号線にでますよ。
ワープの終了点は、みえてきました十字路です。
ーーーワープここまで
はい、ワープはこの十字路で終了です。そして、今回の旅のゴールである川原田一里塚は、ここを右折すると眼の前にあります。
参考文献3によりますと、こちらのお宅に川原田一里塚が現存すると書かれておりますので、白くま父さんはきょろきょろ探しました。だって、今回の旅始まってから初の現存する一里塚ですよ!!
はじめは、この小山かなーと思いましたが、チョット小さいなあと感じていましたところ
こちらのお宅の右脇の部分に塚が現存しており、こちらにかつて大きなケヤキの木が生えてきたようです。そのケヤキは参考文献3によると昭和30年代に伐られてしまったようです。
また、その対のもう一つの一里塚は今通ってきた道を築いた際に無くなったようです。
初の現存する一里塚ですが、残念ながら塚木はなく、対の塚もありませんでした。
でも、白くま父さんはここ川原田一里塚の2本のケヤキの大木の写真を見ましたよ!!
参考文献4にモノクロ写真ですが立派な2本のケヤキの写真が「一里塚(戸島)」として紹介されていますので、図書館等で見てみてくださいな。国会図書館のデジタルアーカイブで見られるかと思いましたが、まだ著作権の問題か公開されていませんでしたので、公開されましたらリンクを貼りますね。
100年以上も前に出版されたんですから、著作権は切れてそうな気がしますがね?
目的地である川原田一里塚にたどり着きましたので、今回の「秋田県南部羽州街道歩き旅 御所野一里塚〜川原田一里塚編」は、その7で終了です。
最後に今回のワープの修正をした経路を示しておきますね。
ーーーー2021-11-18追記
ニノ渡についての追加調査結果です。
2021年11月16日に秋田市役所分館1階にある文書法制課窓口へ行き、公図を閲覧してきました。
こちらの中川原の公図や、国土地理院のHPで現在の航空写真と昔の航空写真を見比べてみたり、ゼンリンの住宅地図をみて検討をしてみますと、どうやらニノ渡に向かう羽州街道は、お地蔵さんよりももうチョット川上のあの微妙なS字カーブのポイントから岩見川へ向かっていたようです。
ここですね。微妙に土地の区割りに羽州街道の輪郭が残っているようです。
国土地理院のHPで現在の航空写真と昔の航空写真を見比べてみると一番解りやすいようです。
これを参考にして現在の地図に書き込んでみますと、
おそらくこんな感じで「ニノ渡」は岩見川を渡っていたと思われます。よって、ほぼ現在の戸島大橋の辺りを江戸時代も渡っていたと考えられます。
よって、またまた経路を修正します
ーーーー2021-11-18追記 おわり
今回は藪漕ぎや寄り道、ワープが多かったけど、
次回はどうかな?乞うご期待!!
次回の「秋田県南部羽州街道歩き旅 川原田一里塚〜石川一里塚編」その1にご期待下さい!
前回その6はこちら
まとめページはこちら
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白くま父さんの勝手にお願いコーナー!!
今回のワープしたあたりからの羽州街道、ニノ渡跡についてなにか情報がある方はおしえてください。よろしくおねがいします。
2021-11-18 ニノ渡の追加調査を上に追記してますので、よかったら見てくださいね。
2022-1-4 秋田県立博物館さん、是非ともデジタルアーカイブで「足栗毛」の公開をおねがいしまーす。カラーで!!
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参考文献1:秋田県教育委員会「歴史の道調査報告VIII 南部羽州街道」1986
参考文献2:藤原優太郎「羽州街道をゆく」無明舎出版 2002
参考文献3:佐藤晃之輔「秋田・羽州街道の一里塚」秋田文化出版 2013
参考文献4:秋田縣河辺郡役所「河辺郡誌」大正6年(1917年)
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初稿:2021-11-13
ニノ渡しの追加調査結果を追記:2021-11-18
足栗毛の資料内容を追記:2022-1-4
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